春
いらっしゃい、とドアを開けて、旦那を待ちわびていた奥さんのごとく、ふざけた気配を孕ませて春原くんは笑顔をほころばせた。
「なんか、春原くんのほうがお嫁さん向いてそうだね」
「あはは、オレセンスあるかな?」
愉快そうに眉を曲げてみせるこの男の子のことを、まだ恋人だと受け入れきっていない自分がいるのも確かだった。期間限定とはいえ、今日から一緒に生活を共にするというのに。
「入って入って。昼ごはん食べよ! オレもうお腹ぺこぺこ!」
「晩ご飯の分も適当に買ってきたよ。冷蔵庫はもう使えるよね」
「いけるいける! 今ね、チャーハン作ってんの。手伝ってよ」
春原くんは私の手からレジ袋をさらって、ついでに右手も彼の手に捕まった。窓の開け放たれたリビングには柔らかい春の風が吹き抜けていて、気のせいだろうか──そのなかに若干、いやかなり、焦げ臭い香りが混じっている。
「ねえ、焦がしたチャーハンを生き返らせるのって得意?」
普段通りとなんら変わりのないチャーミングなスマイルで春原くんは私を振り返る。
キッチンの惨状を把握するには、その場を一瞬目の当たりにしただけで十分だった。春原くんは悪びれる節も見せずに、それでもほのかに許しを乞うように、私の背中に抱きつく。
「これはちょっと……派手にやったね〜……」
「食えないことないんだけどね。不味いだけで」
「はいはい。ありがとうね。春原くんは家具とか整えておいてよ。ぱっと作っちゃうから」
「はあい」
あ、と思ったけれど遅かった。春原くんの声音がすこし落ちたのは、きっと私の気のせいだ。
いい返事を返されるから、大抵はそのまま見逃してしまう。もうすこしかわいげのある余韻の残し方や、甘い空気の引き伸ばし方を。そしてようやく気付いた時にはもう背中を向けられている。
「やっぱおいで」
レジ袋から取り出そうとした玉ねぎが、支えを失って床に転がる。彼は重い落下音なんて気にも留めずに、私の手を強く引く。
春原くんは、心の中でほんのすこし伸ばしかけただけの手の気配にも気付いてしまうような子だった。そこが好きなのか苦手なのかは、わたしにはまだわからない。誰にも侵されることのなかった心の砦を目敏く崩して、ただ踏み込んで傍にいてくれる。私にとってそれは乱暴なのに、なぜだか生まれる感情はやわらかであたたかい。
「一緒に見て回ろうよ、今日から暮らす部屋なんだから」
「……うん」
「オレが案内したげる!」
「そこまで広くもないでしょ」
「まあまあ」
内見の時にすでに見尽くしたトイレや浴室を、春原くんは張り切って紹介した。ふたりで入ってもいけるね、とバスタブに足を踏み入れた春原くんは何気なく呟いた。いけるかな、と浴室の照明に気を取られながら私は尋ねる。
「普通に狭いよ」
「いいじゃん、そういうもんだよ。ほら、いらっしゃいよ」
おちゃらけた声音で誘う春原くんに、私も軽く笑いながらバスタブの垣根を踏み越えた。三角座りをしている春原くんの膝の間に身を滑らせて、彼にもたれるように肩の力を抜く。ジーパンに包まれた両の足が、私の身をがっつりと挟んだ。
「あー、いいねこれ。毎日一緒に入ろっか。えっちもそのままできるしさ……」
「毎日? 冗談でしょ」
「冗談がいい? 本気がいい? 選んでいいよ」
顔をしかめたまま固まった私に、春原くんはけらけら笑いながらバスタブから抜け出して、私の手を取って一緒に浴室から出た。
心臓の起爆剤はいつだって彼の手の中にある。普段は優しいくせして、春原くんは時折それをほのめかす。そういう使い方の方がよっぽど効くことを、彼もきっと心得ているのだろう。このままどこまで落とされるのだろう、とたまに不安になることも、なくもない。
「ベッドがさ、まだ片方しか届いてないんだよね」
「え?」
「うーん、あとニ、三日後だったかな、配達予定日」
開けた寝室のドアには、たしかにひとつきりのシングルベットしか配置されていない。段ボールが積まれた部屋の中で、片方のベッドの隣の空間だけがぽっかり欠けている。
「だから届くまで一緒に寝ようねっ」
「え、だったらソファで寝るよ私」
「えー、やだよ。じゃあソファで一緒に寝る?」
「意味わかんないよ」
「ほらあ、とりあえずいっぺん寝てみなって。めちゃくちゃふかふかでいい感じだから」
「なんで知ってるの?」
「さっきダイブしたから」
下の人に怒られちゃうよ、と自分でもちっとも責めていない声を自覚しながら私はまっさらな布団の中に身を潜らせる。軽く瞼を閉じて息を吸い込むと、鼻腔を通り抜けていく新品の匂いが心地いい。まだ誰の身に馴染んでいない毛布の柔らかさはすこしぎこちなかった。
ゆっくり瞼を開けると、春原くんの静かな瞳が放つ視線と正面からぶつかった。
「春原くん?」
呼びかけに彼は応えず、黙ったまんま私の隣のスペースに無理やり身を捩じ込もうとするので、抵抗もできずに隙間を開けた。するりと同じ毛布の中に収まると、いきなり抱きすくめられたのでさすがに息が止まった。切羽詰まったその鼓動に、まんまとペースを乱されてしまう。
「百って呼んでよ」
「え、……」
「あと、好きって言って?」
その声音に甘えるような響きを含ませていながら、主導権は最初からこちらにはない。怯えるように震えるお腹の底の感触に、「一緒に住みたい」と言い張られて根負けしてしまった時のことを鮮明に思い出す。
春原くんは若くて眩しくて、まだまだこれからいろんな経験をこなしていく子なんだろう。私ごときが最後の女になれないことは最初からわかっていたし、だから腰を据えて付き合うつもりなんて私にはなかった。──正しくは、期待をしていなかった。
だから同棲の提案だって最初は拒んだのだ。私たちにはまだ早い、と。だけどこの子は聞かなかった。自分が引っかかってしまった穴の深さに唖然としたのはその時だ。
一年だけね、という制約はせめてものプライドでぎりぎりもぎ取った。それでも最後は負けてしまうだろうことは分かりきっていた。一年も生活を共にしてしまったら、情が湧くに決まっている。
「ねえ、お願い」
おねだりの皮を被りながら、春原くんはもうもがいても抜け出せないような力で私のことを抱きしめている。
「百、くん」
「うん。なに?」
「……好き」
からん、と何かが割れる透明な音が胸の内で響く。彼の発する熱が、深い吐息が、途端に五感になだれ込んでくる。暗示をかけられたようでおそろしかった。私はこの腕の中が、すでに愛しい。
「ん。よくできました」
もうちょっとこうしてたい、と彼は私の唇の近くでそう呟くと、ぎりぎりお互いのそれが合わさらない位置で瞼を落とした。何秒分、そのまま彼の呼吸に耳を澄ませていただろうか。不意に春に包まれた雪がみるみるうちに溶けていくように、私たちの唇はいつのまにか触れ合っていて、境界線もだんだんと滲んでいく。
百くん、と乱れた呼吸で呟いたのは呼びなれない方の名前だった。好きだよ、と何度か囁かれた。その頼りなさを抱き止めておくために縋り付くと唇を剥がされて微笑まれ、控えめでささやかな口づけを繰り返していると思ったら獰猛に飲み込まれてしまう。彼の匂いも言葉も、暖かくて掴み所のない春そのものだった。
「ずっとこうしてたいね」
散り急ぐ桜のように残酷に、しかし無邪気に百くんは叶わぬ願望を口にした。思考を手放した脳はあっさりと「そうだね」と答える。それでも、そうだね、と本気で思っていた。こんなのがずっと続くと信じられたら、どんなに幸せだろう。