prologue

 路地裏の色褪せた青い標識が新鮮にうつるほど、この道の色彩は薄かった。
「あのね」
 硝子の破片のように激しくて鋭い雨粒が、ビニールの傘を叩いて落ちて、地面で弾けては馴染んでいく。
 春原くんに投げた呼びかけは届かなかったらしい。背中はどんどん遠ざかっていくばかりだった。その景色のあまりの正しさに、足を再度進める気にはなれなかった。
 ごろり、と目の前に色の塊が落ちる。思わず、見つめる。その赤は、目に留まらないほど風景に溶け込んでいたらしい。鮮烈に転がっていった椿の花は、無慈悲な冷たい雨を浴びていた。
「あれ!? どうした!?」
 そこで、春原くんが私に気付いて足を止める。そんなシーンも含めて、いい夢だな、と思いたかった。醒めてほしくない、手放したくない、とほどよく執着できたなら、きっとなにも心配はいらなかった。
 けれど私にとって、夢はあまりにも夢で、のめり込むにはあまりに儚くて、危ういくらい頼りない。
「すごい雨だなあって」
 駆け戻ってきた春原くんに、私はそう告げる。微笑みはなんとか頬に貼り付けた。
「足、濡れちゃった? 靴下買ってく? ちょっと歩けばスーパーあるよね」
「濡れてないよ。大丈夫」
「そっか、よかった」
ちなみにオレはねえ、びちょびちょ。と、春原くんはこっそりはにかんだ。ふたつの傘を挟んでいるせいで聴き逃してしまいそうなくらいか細くて、でもわたしだけに聴こえるささやかな申告だった。
「じゃあ、買ってく? 春原くん用の靴下」
「や、すぐ家だしいいよ。あっ、このままオレん家でよかった?」
「それは、構わないけど」
「やった」
 誰もいないことを軽くたしかめると、彼は無邪気に軽いキスを降らせた。雨のせいか人気がないとはいえ、休日の真昼間に外で、とかすかに呆れて、あんなに強烈だった不安がふとゆるみかける。
「傘、ふたつもいらなくない? いれてよ」
 でも、だから、駄目だなって。これ以上は、もう。
「待って」
 幾度となく私を見つめた瞳が、相も変わらず同じ純度で、私を映し続けることに、耐えられそうもないから。
「ねえ、どうしたの」
「どうもしない。でも」
「また変なこと考えてる。そうでしょ。オレに言おうとしてることの返事、先に返してあげよっか」
 いい、となんとか捻り出した拒否は春原くんを制すにはあまりに貧弱だ。彼のぬくい手のひらで握りしめられてしまえば、どうしたって私の冷えた手首は温まってしまう。
「絶対、絶対別れてなんかあげない。この手ももう離さないから。……その上で言いたいことがあるなら、一応聞くけど」
 張り巡らせた透明の壁をすり抜けていくことなく、その言葉がただの外側を滑り落ちていったことに安心して、私は言おうとしていたそのままを呟いた。
「お願いだから今ここで、私と別れてください」
「やだつったじゃん! 今!」
「私も嫌。譲る気もない」
「も〜、なんでそうなんの!? 手強いなあマジで!!」
 大袈裟なその剣幕に思わず笑いが漏れる。顔まで赤くして本気で喚く春原くんはかわいかった。弱まらない雨でさえ、この場を彩るBGMに思えるほど。
 だからね、わたしたち、このままでよかったし、このままがよかった。
「オレも、言おうとしてたことあんだけど、いい?」
「いいよ」
「いつまでもこんな感じじゃ、正直埒あかないじゃん? だからさ、もう一緒に住も?」
 は、と私の口から綺麗な疑問の形で空気が出ていく。
「いや、一緒に住む。もう決めた。これは一方的なお願いね。これっきりでいいから、オレに付き合って。別れるのはそれから。ね、オレが嫌いでも憎くても、あとちょっとでいいから傍にいて」
「嫌」
「んーん、だめ」
 潤んだ瞳で甘く言葉を落とす彼は、いつだって私にとって天使だったし悪魔だった。粘り強く首を振る。そうして最後まで拒む。それでも、強引に口付けられる。
 春原くんは良くても、私は良くない。そういった事柄が多すぎる。その原因の大半が年の差である限り、この段差は決して狭まることなく、これからもただ積み重なっていくだけの負債だ。
「春原くんには、付き合えない。私じゃもう」
「いいよ。なら、オレが悪者じゃんね。嫌がってんのに、こうやって無理矢理手繋いでんだし」
「……全然、わかってない」
「うん。わかんない。ごめんね」
 眉を下げてそう言ってのけた彼に、私が言えることはもう、何もなかった。
 春原くんは次の瞬間には満面の笑みで私から傘を奪っていった。彼自身の傘は既に畳まれている。どんな家がいいかなあ、と、信じられないことに春原くんは平然と呟いてみせる。
「待ってって。ちゃんと、話そう。今日は私もう帰る。また今度」
「じゃあ次会う時までには家決めちゃうけど、それでもいいの?」
「……なんで」
「あのさ。ほんとに逃げたいなら、逃げてもいいよ。でもそんなの、駄目ってわかってからでもいいじゃん、……んで、そもそもそんな思いさせるつもりなんかないよ、オレは」
 この話、もう終わりでいい? 春原くんは静かにそう告げた。返事をしない私を連れて曲がった方向は、彼の家の方だった。
 振り返ると未だ椿は輪郭を保ったまま雨に強く打たれていて、いたたまれなくてすぐに前を向く。
「一緒に住むとかはまだ考えさせてほしいけど」
「……なに、やっぱ嫌?」
「どっちにせよ、すぐは無理だよ。当分忙しいし」
「じゃあ、それが終わったら」
「だから考えさせてって」
「わかってるって。ねえ、どんな部屋がいい?」
「うーん。日当たりが、いいとこ、かな」
「オッケー。バッチリなとこ見つけてくる」
「だからまだ保留だって」
 ああ、あっという間に忘れてしまいそうだ、瞼の裏でまだ思い返せる椿の痛々しささえ、すぐに。
 陽に当たらないはずの領域まで照らすくせして、眩しさで首が絞まるほど致死的な熱量があるわけではない。彼が私に与える光には、あまりにも隙がなかった。──最後に全部彼のせいにする余地なんて、最初からあるわけがないのに。
「次晴れた日にでも、花見とかしようよ。穴場見つけたんだ。綺麗だよ」
「近く?」
「すぐそこ! まだ咲いてないけど」
「じゃあ、お弁当でも作っていくね」
「よっしゃ。一緒に作る?」
「なら、それまでに料理できるようにならなきゃね」
「あ、バカにしたな? したでしょ? いいもん、オレ本気出しちゃうもんね」
「あはは、楽しみ」
 冬はいつの間にか溶け消えたらしい。雨はあくまで春の雨として街を濡らしている。これから枯れることなんて夢にも思わず、蕾はこれから膨らむばかりで、そして彼の手は尚も、私の手を温め続ける。

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