01
特別に貰った合鍵を通すと、部屋に踏み込んだ瞬間におそろしく五感──主に嗅覚と触覚を直に殴るような色気の気配に、脳の髄が早々に警鐘を鳴らした。これは、まずい。
気休めに鼻を手で覆い、しかしその程度で防ぎきれるはずもなく、長くもない廊下をふらつきながら辿り、寝室との境目を躊躇う余裕もないままに踏んだ。ベッドの上に大きな塊が寝そべっている。集めきれなかったのだろう、傍にぽつぽつと散らばっているのは彼が手繰りよせた私の衣服だ。そしてそれが山になったその中に、彼──Re:valeの百は、うずくまっている。
「あ、……やっほ、ごめんね……いきなり呼んで……」
「喋らなくていいですよ。抑制剤飲みました?」
「ん。でも、やっぱ効き悪いみたいでさ……」
「じゃあ、とりあえず一回しちゃいましょうか」
「あっはは、風俗よりドライ」
「笑ってる場合ですか。使えるものは使ってください」
「……だめだよ、そんな言い方しちゃ」
なーんて、オレが言ってもしょうがないか、と百さんは眉を下げて、それでも優しさを隠しきれずに口角の端に滲ませる。そんな情はない方がマシだ、と伝えてしまうのは簡単なのだろう。私だって無闇に彼の罪悪感を煽りたいわけでもないし、その思いやりは無言で受け取ることにする。
「減るものじゃないって言うじゃないですか。私、本当に平気なんです」
「……そんな風には思ってないよ、オレは」
「はい。気持ちだけ受け取っておきます」
シャワーは既に自宅で浴びてきている。遮光カーテンもきっちり閉められた真昼の暗闇で、百さんは自分で自分のTシャツを剥いだ。私も着ていたブラウスを脱いで、惜しみなく黒いパンツも脱ぎ捨てる。下着姿になったお互いは、もう何十回も繰り返した儀式のようにしっくりと、肌と肌を擦り寄せて、無駄のない愛撫を交わした。百さんの胸を慎重に撫ぜると、「ぁ、」と余裕のない声が漏れる。情けなさそうに彼は苦笑すると、私の胸を下着越しに揉みながら、片方の手を自分の股間に寄せた。なるべく早く終わらせようとしているのだろう、百さんの吐息は一気に切羽詰まって、潤んだ瞳はまぶたに隠れる。そんな彼の意図を汲んで、私も同じ位置に手のひらを添わせる。
「あっ、……ん。大丈夫、さいしょはひとりでする……から」
「一緒にする方が早いでしょう」
「ああもう、触んないでよ、あっ」
神経を直に撫でられたように百さんの身体が跳ねる。まるい頬には、暗闇でもわかるくらい血が上っていた。僅かな刺激でも耐えがたいらしいが、あんまり長引くと体力も消耗しすぎるだろう。こんな有様ならむしろ、早く欲を吐いてしまった方が楽になれる。
「ゃ、ちょっマジで、待っ……て」
「気持ちいいことだけ考えて。できる?」
「わ、耳やばっ、ばか、うわ出る、っ」
下着も焦らさずに先に脱がせておけばよかったな、という反省は後の祭りだった。症状は例に漏れず今回も酷いらしい。淡々と脱力している彼から下着を脱がせて、吐露した液体をローション代わりに百さんのそれを手のひらで包んで摩った。
「きつい、ほんとに待って、……ぅ」
短い彼の髪がシーツに広がっていて、刺激に身をよじらせる度にくっきり刻まれた筋肉の線があらわになる。──今すぐこの子のことが欲しい。はやく私のものにしなきゃ。
我慢も理性も、脳内の辞書からだんだん掠れて消えていく。本当にまずい。でももう、どうにもできない。
手の止まった私の様子に気付いた百さんが、耐えかねたように「どうしたの」と呟く。そのまま重そうに身体を起こして、熱っぽい口付けをべたべたと子どものように寄せてきた。
「したく、なくなっちゃった?」
距離を縮めたせいで私の気配が濃くなったからだろう。きつそうに目をすがめる百さんは、圧倒的な本能の中で私への思いやりを絞り出す。不意に泣いてしまいそうになった。こころの中で疼く傷を、そっと探り当てられてしまったかのような感覚に。
「大丈夫。……もう一回だけ出しておこうね」
「あっ、んっ、も、意地悪なんだから……」
近付かれて濃密になったフェロモンに理性を溶かされるのはこっちだって同じだった。脱力した身体を押し倒したついでに彼の首筋に顔を埋め、肺の隅までを染まるように彼の肌の上で息を吸う。
「あ、あ、でちゃ……っ」
「いっぱい出てるよ、じょうず」
「もう、だから耳やめてって……ん……」
「ねえ……私のなかにいれてもいい?」
「……ん、いいよ、きて」
当たり前のようにまた、百さんは私にキスをせがんで、躊躇った私に痺れを切らして自分から奪った。比喩抜きで舌が溶けそうなほど、百さんの口内はどこを舐めても甘くてたまらない。発情期のオメガとの行為はただのキスでも性感を拾えるものなのか、と頭の隅の隅で冷静に驚いていた。大事に隠した理性が奪われてしまわないうちに、また百さんから主導権を絡めとる。
「あ、ちょっ! 待って、ゴムつけなきゃ、」
「平気、です」
「え!? 平気じゃないよ! だめだって!」
「アフターピル、友達から貰っといたんで。……こんなになってるのに、出す度いちいち付け替えてなんてられないでしょ?」
「や、それ、え、いいの……」
「いいの」
百さんのお腹の上に手のひらを置いて、腰の上に跨る。入り口と百さんのものの位置をそっとたしかめて、息をついた。手のひらを湿らせる粘液はもうどっちのものなのかわからない。かすかに震えている彼の腹筋にこっちまで気がおかしくなりそうだった。
「ん、ほら、あ、っ……や、はいっちゃ、っ!」
自らが発した甲高い声に呼応するように締め付けてしまって、咥えこんだものの形をはっきりと股の間で感じ取る。太ももの力は途中で抜け、重力のせいですでに奥まで沈みこんでしまっていた。
「あ、ッ、ももさ、ねえ、きて、もっときて」
「ん、きもちい……ぁ、あんま、ぎゅってしないで」
「ね、たりな、んッ、たりない……」
脳を通さずに声帯から直接吐き出されていく言葉がどんな意味を発しているかなんて、認識できるはずもなかった。まぶたを強く閉じたって、真っ暗闇にちらちらと星が舞う。骨の髄までしゃぶりたい。余すことなく吸い尽くしたい。この男のぜんぶが、私のものにならなきゃ気が済まない。
「あ、いくっ……ッ、!」
熱く震える彼自身が私のなかで零すものが、まるで涙みたいにきれいなものに思える。耳を容赦なく濡らすねちっこい音はますます粘着質になっていくばかりなのに。
「っはぁ、ごめん、大丈夫?」
「だいじょ、ぶ……ん、百さん、」
百さんの身体のほうはやっと少しましになってきたらしい。なあに、と舌足らずな返事を漏らして、百さんはゆっくりと身を起こした。当たっている位置が微妙にずれて、敏感になりきった身体はそれだけで高い声を漏らす。
「どうしたの?」
「あのね、もっと、酷くしてきつくして、もっと、わたしのものになって、……おねがい」
彼自身が楽になったところで、途方もない色気にずっと晒されているこっちが満足できるというわけでは、残念ながらない。
「ん。……わかった。本当にきつかったら言ってね」
「だいじょうぶ、へいき」
「もう。無理しないでって意味なのに」
大丈夫じゃないところまで、本当は連れて行ってほしいのだ。意味をわかっていないのはお互い様だろう。そんなことを思った自分が急に愚かに思えて、熱がすうと冷めかける。
シーツの上に仰向けに倒されてしばらく、天井の模様をぼんやり眺めた。中にいれっぱなしでずっと燻っていた欲が一旦抜けていく瞬間すら、ぎょっとするような音が肌の上で響く。すぐに粘液をかき出す百さんの指の動きに意識がもっていかれて、そんなことはどうでもよくなったが。
「いれるね」
「あ、ん、……っ、きもちい、」
「好きなとこ教えて。してほしいことも言って。なんでもしたげる」
「あ、おく、奥が、いい……っ、きて、はやく」
いっばいまで腰を引かれて、その瞬間さえ煮えたぎりそうにさみしくて、それでも次の瞬間に自分を襲う衝撃を知っていて、──最奥を穿っていく彼を受け止めたときにはもう、熱い抱擁にすでに包まれていた。
「……ッ、はァ、ん、ね、ももさ、は、わたし、のもの?」
「うん、そうだよ」
「ぁん、そ、れ、……おく、とん、とん、やだっ、……」
「オレのことぜんぶ、きみのものにしていいんだよ」
張り詰めていた糸が弾け切れたような、一瞬の恍惚だった。後を引く絶頂の中でなにを考えることもできない。身体がびくびくと跳ねている。不安定な高揚の中で、百さんの絡まった指の温度にすがりついていた。
こんな闇の中じゃなにもかもが頼りない。いまさっき百さんが私に囁いたはずの言葉だって、泡のように空気中に散ってそのまま消えていく。