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 Re:valeのサブマネージャーに配属されてちょうどひと月が経ち、慣れない仕事の要領も飲み込み始めて、早朝出勤深夜退社の不規則な生活リズムにもなんとか適応し始めた頃だった。
 自分の性がアルファだからといって、仕事の覚えの速さやノウハウの習得に努力が混じっていないわけじゃない。それでもそれをわかってやれるのは私自身だけだった。"上級階級のアルファ"だもんね。私を評価する声には、いつだってそんな枕詞がつきまとう。
 もちろん、様々な人間のやっかみを買いながらも生まれ得た能力をフルに使いこなして華々しく成功を手に入れる側の人間も目に入る。
 それでも私が私の人生で手にしたかったものは、そんなものじゃなかったのだ。
『やっぱり、アルファ側の人間は違うよなあ』
 業界人を相手にしていると平気でそんなことを呟かれることも別に珍しくないし、自分なりの努力を無碍にされることもいつの間にか慣れていた。

「体調悪い?」

 私の表情を覗き込んだ、硝子のように綺麗で、それでいて愛嬌のある彼の瞳に、電流を流されたように体が震えた。はっとして顔を上げて、状況を把握する。百さんはなおも心配そうな目で私を見つめていた。
 同僚の分まで手伝っていた資料作りに連日時間を割かれ、睡眠時間が三時間を切る日がうっかり重なり続けたのだ。どうやら一瞬、意識が飛んでいたらしい。手元にあるバラエティ番組の台本をちらりと確認して、「すみません」と頭を下げる。
「ちゃんと寝てないでしょ〜。クマできちゃってる」
「百さんほどじゃないですよ」
「最近はそうでもないって。でもさ、若い頃にした夜更かしって肌に響くよね……」
「それは同感ですけど」
 両頬をつまみながら大袈裟に顔をしかめた百さんがおかしくて自然と浮かんだ笑いに、彼は心底うれしそうに目を細めたので、背筋に力が入った。彼らを支えるべき人間が、こんなところで気を遣わせている場合じゃない。
 改めて、クリアファイルの中に仕舞われた資料を手渡す。二月の会議室は窓の外で今年何度目かの雪が舞っていたが、暖房が効き過ぎているのか、私の頬にはやたらと熱が溜まっていた。
 ゴールデンタイムを独占する三時間スペシャルのバラエティ番組で、MCを割り当てられている百さんに、番組の流れについて一通り説明する。乾いた喉のせいで声がやたらと掠れて、ペットボトルいっぱいに満ちていたはずのミネラルウォーターは途中で切れてしまった。風邪だろうか、タイミングの悪い、とげんなりしつつ、すんなりと概要を掴む百さんの質問にメモをとり、確認事項をざっと書き出した。
 脳裏では体調の異常を伝える警告がちかちかとまたたいていた。それでもこの程度の無茶でダウンするほど体力がないわけではない。歳だろうか、と思い至ったが、それにしてもおかしい。ついこの間だって、三日くらい徹夜したって後にしっかり休めば働き続けることだってできていたのだ。──体調不良の原因を突き止めきれずに、打ち合わせは終わりを迎えようとしていた。
「なんか寒いよね、今日。雪も降ってるし」
 百さんの一言に「そうですか?」と反論しかけて、口を噤んだ。暖をとるために腕をさすって首を縮めている彼の姿に、おかしいのは自分だ、と自覚したからだ。──正確には、その感覚を思い出した、と言う方が正しい。
「事務所の暖房、温度上げてもらうようにお願いしておきます。流行ってますから、風邪には気を付けてくださいね」
「大丈夫大丈夫。そっちこそ、ちゃんと休まなきゃだめですぞ」
 事務所内にオメガの人間はどのくらいいたか──正確な数は把握していない。さらにはヒートの周期なんて、いちいち把握しているわけがない。まだ匂いにあてられて気分が悪くなるほどではないが、しかし、距離的にはかなり近くにいるのだろう。
「……やっぱ、体調悪いんでしょ。もう今日帰らせてもらったら?」
「少し休めば平気です。打ち合わせはこれで以上なので、次の担当に連絡しておきますね」
 立ち上がると酩酊のような目眩が視界を包んで、足がよろめく。私の身体を支えた腕が触れた瞬間に、もしや、と疑っていた事実を確信した。
「ちょっと。全然平気じゃないじゃん」
「……すみません、ごめんなさい」
 ただの体温に触れた感覚とはまったく異なる。火傷をしたような感触の奥にいるのは、久々に頭をのぞかせた、暴力的な色を纏った欲の塊だった。
 大丈夫。平気。問題ない。使い古したおまじないを唱えて、手をぎゅっと握りしめて、くい込んだ爪に意識を集中させる。
「百さん」
「ん?」
「不快な思いをさせたら大変申し訳ないのですが、……抑制剤、切れてませんか」
「……え、」
 目の前でおおきな風船を割られたみたいに、百さんの顔から表情が消える。他にもっと言い方も方法もあったかもしれない。しかし、何よりこちらに余裕が無い。それに、この部屋のほんの向こう側にも、アルファの人間がいないとは限らない。
 どれだけこれ以降の関係が崩れようとも、それよりは百さんの安全の方が大事だ──捨て身の判断にそんな大層な思惑を秘めていたわけではない。ただ、わたしが、この男の人を相手にくずれてしまうのがこわかった。それだけだった。
「ごめ、まだ時期じゃないはずなんだけど……全然気付かなかった」
「弱いので大丈夫ですよ。私も、特別敏感な方なので」
「そ、そうなんだ。いや、マジでごめん。すぐ飲むね」
「ええ」
 鞄から取り出した白い錠剤を口に含んだ百さんを視界で捉えると、錯覚かもしれないが混乱もすこし治まったような気になった。
「……アルファだったんだ。ごめん、全然そんな雰囲気しなかったから」
「良く言われます。ぽくないよね、って。この性に生まれてあんまりいい思いもしていないので、むしろラッキーなのかもしれないけど」
「そっか。……お互い様だね」
 それだけで会話が通じてしまうくらいには、この国において性別の格差は当たり前のようにまかり通っている。人目に晒されることが仕事であるこの業界じゃ、その極端さはきっと想像もつかないくらい酷いものもあるのだろう。
「本当にごめんなさい。不躾な質問でした」
「いいよ。トップシークレットだから、内緒にしてくれたらうれしいけど」
「もちろんです」
「信用するね。……ていうか、こちらこそありがと」
「え?」
「自分じゃもうちょい気付くの遅かったかもだから。オレ、結構初期は気付けないんだよね……。周期に合わせて前もって飲んだりするんだけど、今回はちょっと油断しちゃった」
「ヒートに気付けないって、結構致命的じゃないんですか」
「にゃはは、そうかも」
 俯いた彼の頬に一瞬の疲労が滲んで、それ以上の追求は避けた。オメガの友人に聞いたことがあるが、よっぽど自分の体調に気を張っていない限りは、始まりかけのヒートは微細な体調不良で見過ごしてしまう程度の違和感しか自覚症状がないらしい。そして、それに気付けなくなったのは彼の非じゃない。無茶をしてまで掴みたかった彼の星のために、彼が選んだ選択肢なのだ。きっと、誰が何と言おうとも。
 目の前にいる百さんと、ずっと抱いていた叶わぬあこがれが、不意に重なっていく音が聴こえかける。が、すぐに頭を振って振り払った。分不相応な憧憬は、仕事に支障をきたすばかりか、保ってきた自分を壊す事態にもなりかねない。
「答えにくかったら構わないですけど、……パートナーは、いないんですか?」
「いなーい。あ、でもね、割と募集中かも」
 忙しい現代人において、最近は下手に効かない薬を飲むよりもセックスパートナーが主流だというのは小耳に挟んだ話だった。しかし、百さんレベルの芸能人じゃ、相手を探すだけでひと苦労だろう。
「手っ取り早くていいよね。こんなのが三ヶ月に一回じゃ、さすがにオレもちょっと参っちゃうしさ」
「それは、そうですね」
「ねえ、なる? オレのパートナー」
 目と目がはっきり合ったまま、たっぷり三秒分の時間が流れる。振られた提案の意味を理解した時にはもう、いたずらっ子のような微笑が彼の表情を染めていた。
「冗談冗談! そんなびっくりしないで。……ちょっとちょうどいいな、って思っちゃったのはほんとだけど」
「あの」
「もう、いいよ。ごめんってば」
「私でいいなら、……なりますよ。百さんの、パートナー」

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