03

 薄く聞こえてくるシャワー音をBGMに、ベッドから落ちて脇に避けられていた私の衣服をひとつひとつ畳んでいた。
 アルファの匂いを嗅ぐと安心する、という特性は百さんにもあてはまるものらしく、「マジで悪いんだけど、洗濯してないものだと本当に助かる……」とのことだったので、ヒート前には仕事場に替えの服を持っていってワンセットずつ百さんに持って帰ってもらい、行為をする日に代わりの洗濯物と引き換えに今までのものを持って帰る、というサイクルが出来上がっていた。
「お待たせしました」
 濡れそぼった髪もそのままに、首からタオルをかけた百さんは部屋に顔をのぞかせた。「わ、畳ませちゃってごめん」と申し訳なさそうにしながら、私の目の前にももりんのペットボトルを差し出す。
「飲む? 終わったあとだと甘いのが沁みるんだよ」
「なら、お言葉に甘えて」
 ぷしゅ、と炭酸の抜ける音が響いたのは同時だった。何となく肩に入っていた力も、その瞬間にふっと抜けていく。喉を通り抜けていった軽い炭酸はたしかに爽快で、溜まった疲労感に綺麗にフィットした。
「たしかに美味しいですね」
「やった。ももりん布教成功。ナギに報告しーちゃお」
「最近布教競争してるって聞きましたよ」
「そ。三月をこっち側につけられたのはデカかったな〜。ナギはマジで嘆いてたけど」
 笑い声を漏らしつつ、スマホを出してラビチャを打っている百さんからふっとももりんのパッケージに視線を移す。その向こうにあるカーテンは、相も変わらず締め切られていた。
 真夏真っ只中の八月、日曜日の午後三時。季節も時間も欠けてしまったような部屋の中じゃ、わざわざそうやって現在位置をたしかめないとあっという間に部屋の中に取り残されてしまいそうな気がした。
「ちょっとは慣れてきた?」
 液晶から視線を上げないまま、なんでもないことのように百さんは私に尋ねた。そうですね、と私も人工甘味料を口の中で転がしながら、何気なく答える。
「身体はましになりました?」
「さっき薬飲んだら、もうなーんともなくなっちゃった。やっぱするとしないとじゃ効きが全然違うんだよね」
「それは、何よりです」
「うん。……ありがとう」
 洗濯物を畳み終えて顔を上げると、百さんが強くこちらを見つめていた。こんな瞬間を、なんとなく避けていた気がする。それでもこの状況じゃ逸らす方が不自然だから、軽く首を傾げるだけにとどめたが。
「敬語も、こんなときぐらい外していいよ。オレのこともモモって呼んで」
「いや、……でも」
「いいのいいの! みんなにもそうやって呼んでもらってるしさ。そもそも、オレより年上だよね?」
「まあ、それはそう……だけど」
 迷って押し出した語尾が、頼りなく揺らいだ。急に目の前の男の子との距離が薄くなった気がして、あんなに肌を擦り合わせたのに、こんな時の方が近く感じるなんておかしい、とますます首を傾げたくなる思いだった。
 相方にも言えない関係の、ぬるま湯のようにしっとりとまとわりつく余韻をぬぐい去るように、彼はあっけらかんと明るい世間話を次々と打ち出した。そして私も、メリハリのあるトークに湧き出る笑いをなるべく堪えず、空気の立て直しに協力した。
「ていうか、恋人とかいない、よね? うわごめん、マジで聞くの忘れてた……」
「さすがにいたらこんなことしないよ。……でも、今の配属になるまでは、ずっと付き合ってたひとがいたかな」
「聞いちゃまずい話?」
「別にいいよ。そのひとも、オメガだったんだけどね」
 出会ってから付き合うまで、最終的に同棲まで進んだそのひととの思い出をかいつまんで彼に話した。──あんまりいい別れ方をしなかったことだけを、そっと伏せて。
「い〜いなあ! めっちゃくちゃ可愛いし楽しそう。モモちゃん憧れちゃう……」
「百、くんは? いないの、好きな人とか」
「いないいない」
「百くんの恋愛事情こそ、私は聞いてみたいけど」
「そういうのはダーリンの方が専門!」
「……まあ、たしかに」
「そこは否定したげてよオレたちのサブマネちゃん!」
 またひと笑いしつつ、そろそろ、というタイミングで腰を上げた。送っていこうか、と私を気遣う百くんに、気丈な笑顔をはっきりと向ける。
「私の方はなんともないから。……身体に気をつけて、ゆっくり休んで」
「……うん。そうする」
「私もビジネスライクに支えていけたらっていう気持ちしかないから、本当に。百くんの性格だと難しいかもしれないけど、気も遣わなくっていいし、困ったことがあればなんでも言って」
「え〜っ、なんか、めちゃくちゃイケメン……!」
「百くんがそれだけ皆に愛されてるってことだよ。もちろん、私もそのひとりだけど」
「嬉しい。あはは、泣いちゃいそうだからあんま見ないで」
 照れくさそうに目を伏せたこの子が、心置きなく輝くためならなんだって手伝ってあげたい。直接だって間接だって、どんな形だっていい。心の底からそう思う。──そう信じられることに、私自身も安心している。
「じゃあ、これからもビジネスライクに」
 差し出された百くんの手を、清らかな心地でぎゅっと握った。
「はい。よろしくお願いします」
 後腐れなくドアを開けた向こうには、ペンキをぶちまけたような青空が、マンションの天井と柵の間でどこまでも広がっていた。──真夏の湿った熱気の匂いを、肺いっぱいに吸い込む。
 この部屋を包む甘い匂いの記憶に、はっきりと別れを告げるように。

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