04
デスクから抱え上げた段ボール箱は確かに持ち重りがしたが、エレベーターを使えば別に堪えられるだろう。中になにが入っているのかは不明だが、下の階の青い自販機のところに置いといて! と土下座イラスト付きの先輩からの書き置きと共にそれは置かれていた。今日は彼氏と一年記念日なんだと朝から意気揚々と浮かれていた彼女は、定時で上がるという宣言通り既に姿を消している。
付き合いたての頃から上がりきっていた熱は一年経っても冷めることを知らず、5歳下の彼氏のことを「頬が落ちそうなくらいかわいい」と評し、会う度に文字通り猫可愛がりしている、らしい。こちらも先輩よりは年下とはいえ近い世代としてその気持ちはまあ、わからなくもない。──想像した相手はうちの看板タレント兼国民的トップアイドルの片割れなんだから、それはそれは贅沢な共感だったが。
たどり着いたエレベーターのボタンを肘で押し、シャツに寄ったシワにも見ないふりを貫く。友人との待ち合わせは余裕を持って設定してもらった。もう一仕事終わらせてからでもきっと十分間に合うだろう。予約してもらった店の艶やかなサーロインステーキの写真を思い出していたら、体力切れの体にもゆっくりと活力が戻ってくる。
欲っていうのは単純なものだな──、と小さく鳴ったお腹に呆れていると、軽やかな到着音と共に目の前のドアが滑らかに開く。
「あ」
「わ。お疲れ! って、なにその荷物! でか!」
百くんは驚き半分心配半分といった声音で私を案じながらエレベーターを降りた。今日の彼のスケジュールは確か朝からライブの振り合わせと収録とロケとで朝から晩までぎちぎちだったはずだ。
「お疲れ様です」と返して、扉が閉じないようにエレベーターのボタンを押す。躊躇いはしたが、仕方なく肘で。
「全然重くはないんですよ。それに、ちょっと下まで運ぶだけなんで」
「んじゃオレが持ってくよ! ちょうどちょっと時間あいたとこだったし」
「いや、わざわざ手を借りるほどじゃな、」
「え〜っしっかり重いじゃん! 誰、こんな箱女の子に持たせてんのは!」
呆気なく段ボール箱を奪われて手持ち無沙汰になってしまった私は、さすがに恐縮して「本当に大丈夫なんで」と奪還を試みたが、彼は逃げるようにエレベーターに乗り込んでしまった。
「モモちゃんにおまかせ。ほら、乗って?」
「すみません……」
「気にしないでってば、そんな大したことじゃないし」
「でも、百さんにこんなこと」
「このぐらい、させてよ」
エレベーターの扉がすうっと閉じて、空気さえも微動だにしない、一瞬の沈黙。その言い方がどういうニュアンスを孕んでいるのか、この世界で知っているのはふたりしかいない。──こんな時に、匂わせるなんてずるい。ずるい、と思ってしまう自分が、汚れているように思えてしまうから。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
一階分の下降はほんの数秒で終わり、エレベーターフロアのすぐ隣に設置されている自販機の隣に箱を降ろしてもらっている間にさっとブラックコーヒーを購入する。お礼を伝えて手渡すと百くんはぱあっと頬を緩ませた。
「わ、うれしいご褒美だ! ありがとう」
「こんなのでそんなに喜んでくれるの、百くんくらいだよ」
笑いながらいつものカフェオレを選んで、落ちてきた缶のプルタブを引く。少し前に甘みを増す方向に改良されたらしく、最近密かに喜んでいたことのひとつだった。
「甘党?」
「そこそこかな」
「コンビニスイーツはなにが好き?」
「金曜のご褒美はスフレプリンです」
「覚えとこ」
隣で缶コーヒーを煽る百くんの、意外と存在感のある喉仏に視線を奪われる。年下の男の子、という単語が脳内ではちかちか瞬いていた。
この程度の会話に女の子扱いを感じ取って、手慣れてる、と唸らせられるくらいには恋愛から遠ざかってしまっていた。そろそろ次を探そうか、という思いつきを真剣に検討しかける。しかし、手枷をちらつかせるように脳裏に浮かんだのは熱で熱を溶かすようなあの時間の記憶だった。
「今日はなんか予定あるの?」
「うん。なんで?」
「スカートだったから。珍しいなって」
「友達と晩御飯。ちょっといいとこなの」
「うわ、いいなあ〜!」
「百くんはこれからラジオの収録だっけ?」
「そ。ダーリンとやっと会える……」
「朝も一緒だったじゃない」
くすくすと笑いを漏らしながら、最後のひと口を飲み干す。鮮やかな色をした瞳と、ふと目が合った。
一瞬の見つめ合いが秒針を歪めたみたいに無音で引き伸ばされていく。吸い込まれてしまいそうで、なのに逸らせない。どうして、と、見つからない答えを探す息苦しさに耐えきれず、「どうしたの」と静かに尋ねる。
「ん、淡い色もめっちゃ似合うんだなって。なんか今日、かわいい」
この子は、誰にでもこうなんだろうか。──脳内に浮かんだ問いに、即答でYesを返す。立ち位置を見失えば一瞬で帰れなくなってしまうことに怯えた。上がりかけた体温も恥ずかしくて、ますます首元が熱を帯びる。
「……あんまり、事務連絡以外で私に話しかけない方がいいんじゃない?」
「ん、なんで?」
「ビジネスライクの秘訣。百くんなんて、格好いいから余計」
「やった。オレも捨てたもんじゃない?」
「当たり前でしょ。その低すぎる自己認識の根拠はなんなの?」
「でも、なんだかんだ結構相手にされないよ。本気にされない、って感じ?」
「ああ、……それならわかるかも」
「え〜! なんでよ!」
しゅんとしょげた表情が憎らしいくらい上手い。軽く伏せられたまぶたから伸びる睫毛の長さだって、こんなに近いとはっきり捉えられてしまう。そんなことさえ意識してしまうのに、もっと近い距離を、その肌の温度を、私はもう知ってしまっている。
「楽しんでね。最高のディナーにしてきて」
一緒に捨てとく、と私の手から缶をさらって百くんは立ち上がった。さりげなく男の人らしい低い声音に、弱っている時の瞳との対比が際立って、また認識を改めた。
落ち着かない気分のままスマホを取り出して、時間を確認する。体の中心で響き続ける脈の音に気を取られて、だから、──だからすぐに気付けなかった。
物音に目をあげると、ずるり、と自販機に手をつく百くんがいた。え、と掠れた音が喉からこぼれる。そのまましゃがみ込んだ彼のそばに、慌てて膝をつく。
「……帰りまで、もつと思ってたんだけどなあ」
無理して作られた苦笑いに、後頭部に鈍器を振り下ろされたような衝撃が襲う。ごめん、と口走って、深い呼吸を繰り返す背中を咄嗟にさすった。その熱さに手のひらが痺れて、目を覆いたくなった。百くんの体温のせいだけじゃない、肌を直に刺してくる棘を纏った熱。
「でもなんで、まだ二ヶ月しか経ってないよ」
「わかんないけど、ちょっとずつ、ずれてきててさ。さすがに今回は早すぎだけどね」
はあ、と吐き出される吐息が重い。どうして。どうしてわかってあげられなかったんだろう。思わぬ遭遇に浮き足立っていたからだろうか。そんな情けない話があるだろうか。
「百くん。ここじゃちょっと、まずいかも」
「ん……立てる、よ、大丈夫」
「肩貸すから、奥の会議室まで歩こう」
今のところ幸いフロアに人気はない。重心の芯をなんとか支えながら、扉を押し開けて転がり込み、後ろ手に鍵をかけた。電気をつけるより先に、百くんを壁伝いに座らせる。ふつふつと地面のくぼみに落ちる雨粒のように溜まっていく欲を、嫌にじっとりと自覚しながら。