05

「薬持ってる? ないなら取ってくるから場所教えて」
「ポケット、にいれてて、……みぎ、」
 垂れた腕をずらしてポケットをまさぐり錠剤のケースを取り出す。小さなケースの中にはざらに10錠は押し込められていて、どうやら種類も違うらしい。
「オレンジのやつ、と、カプセルのやつ……それがいちばん効くから」
「わかった。あ、……お水」
「なしで飲めるやつにしてもらってる、から……ぅ、」
 錠剤をつまむ指先が震える。溜まってく欲望を抑えるのは排泄をこらえるときにすこし似ていて、限界が近いとそれなりにこっちも苦痛がある。背筋を駆け上がる薄い寒気に、それでも百くんの方がしんどい、とこらえながらぎゅっと目を閉じる。
「ちょうだい、はやく……」
「ん、まって、まってね」
 手のひらにのせた2錠とも、百くんの唇に、震える手で運ぶ。半ば押し付けるような力加減になって、でも、今彼の身体にわずかでも触れるのは決定的な間違いだったらしい。
 ──過ちを過ちと知るのは、いつだって戻れなくなってからだ。
「ごめん、も、我慢出来な……っ、かも、ごめん、ももくん、」
「……いいよ、すぐに薬も効くから、長くはもたないし、おれも、きつい……」
 貪るような衝動に任せて無防備な彼の唇を奪う。ざらざらと苦い錠剤の味がまだ舌の上に残っていて、でもふたつの舌が絡むうちにすぐに溶けて消えた。
「一回、抜けばいい?」
「おねがい、……ごめん」
「謝らないで、もう」
 謝ってもらう資格が、もう私にはない。夜を迎えたとはいえまだ人のいるオフィスの一角で、罪悪感に身を滅ぼされそうになりながら、それでもこれは事務的な処理なのだと言い聞かせた。百くんの下着ごと膝まで下ろして、あらわになった下半身に指を這わせる。私が私じゃなくなっていく感覚は、こんな所で味わってしまうとひどい恐怖と化す。
「は、ぁ、……ぁ、あ、んっ」
「声、我慢できる?」
「っぁ、ぅん、……」
 自分のパーカーの袖を口にくわえて、握りこんだ手を上下に滑らせるたびに、ふ、ふ、と息を漏らす。闇に慣れてきた目が、首筋まで真っ赤に火照った肌をとらえる。
 薄くなりそうな意識の中で、なんとか感覚を失わないように必死だった。つらそうな表情が、ひどく切なく心に残る。
「わたしの肩、つかっていいよ。シャツ、脱ぐからちょっと待ってて」
「え、でも」
「痕ついても別に困らないから。……はい、いいよ」
「んっ、やめ、さすんな、いで」
 迷う余裕もないのだろう。百くんは隣に移動した私の身にしがみついて顔をうずめる。体温が密着しただけで簡単にリミッターが飛びそうになる。唇をかみ締めたその刺激さえぐずぐずと疼く熱の元になる。
 あふれてくる先走りを使って刺激を与えていたら、歯を立てられた痛みが肩に走った。思わず跳ねた身体にも、快楽の方が勝った事実にも、簡単に動揺した。
「ん、んッ、ん……〜ッ、も、いきた、」
「いけない?」
「も、ちょい、」
「舐めてあげよっか」
「だめ、やだ、あッだめ、だって、……」
 体勢を変えようとした瞬間強く抱き寄せられて「こっちいて、」と切実な駄々をこねられる。あまくひらいた唇をちゅ、と吸って、「ここにいるから大丈夫だよ。ちゃんとみててね」と髪を撫でた。愛撫を再開すれば、たちまち潤んだ瞳がわたしの手の中でどんどん溶けていく。
 力の抜けた腰に顔をうずめて、口内に彼のものを招き入れる。咳き込まないよう喉を閉じて口いっぱいに咥えこみ、口をすぼませてぬめったその熱を吸い上げた。
「ッこん、な……すぐ、いっちゃ、や、」
「きもちいい?」
「ん、きもち……ッ、ぅ、でちゃ、っ」
 震えた腰からあふれる熱い粘液を零さないように口内の空間で受け止める。息をとめたまま、一瞬の判断ですべて飲み込んだ。生臭く苦々しい後味がシンプルに不快で、ぬらぬらと湧き続けた欲情はほんのり鎮まる気配を見せた。
「は、ごめん、ごめん……。ティッシュ、あるかな、あっオレの手、つかって……」
「飲んじゃった、から、いいよ」
「う、うそでしょ……」
 百くんは目を見開いたあと、くったりと壁にもたれかかってかすかに笑った。
 その目尻には細い涙のあとが艶々と残っている。泣くほど気持ちよかったのか、泣くほど情けなかったのか、どっちだったんだろう。そんなことさえ尋ねられる距離にないことを、はじめてもどかしく思った。
「はあ、挿れたい、」
「さすがに……」
「ん、わか、ってんだけど」
「だめ、きちゃだめ……百くん、私もう無理、だから」
 欲へと飲み込もうと誘う甘美なフェロモンは治まるどころか濃度を増しているような気さえして、薬が効くまでのタイムラグを心底恨んだ。こういうときどうしたらいいんだっけ、と、気を紛らわすために頭をフル回転させる。しかし、距離を詰めようとしてくる百くんをなだめるのと並行するのは、結構難易度が高い。
「百くんだめ、あともうちょっとだけ、私も我慢するから」
「ん、ごめん、……ごめんね」
「ぁ、だめ……ほんと、んッ」
 押し倒された勢いのまま、首筋に香りを擦り付けるように百くんの頬が擦れる。その度に全身を溶かされていくような錯覚に殴られる。
 せめて服を着ようと伸ばした腕はシャツに届かなくて、晒された肌に直接こびりつくような熱は熱くてたまらないのに愛おしさを駆り立てる。駄目だ、こんなところで最後まではできない、ああ、でもこうしてるうちにも、正しい判断が薄れていく。なにもかも欲しい、今すぐここで、彼と溶け合わないと死んでしまう。──死んでしまった方がマシだ、彼と今離れてしまうくらいなら。
「も、もく……」
「好き、好き……だいすき……おねがい、」
「やだ、ほんと、はいっ、ちゃ、だめっ」
 下着越しにしきりに擦り付けられる百くんの気配にいよいよ我慢が焼き切れそうになった──後戻りがきかなくなりそうになった、その瞬間だった。
「っは、…………」
「……ももくん、?」
 遠慮なく覆い被さるように、ほとんど倒れるように脱力した百くんの背中を叩く。返事はなかった。
 しかし、酷く熱い体に宿るその熱の正体は既にもぬけの殻となっていた。夢が覚めるようにあからさまに、甘い匂いも弱まっている。
「薬、効いてきた……多分」
「そっか、……そっか、良かった」
「っ、ごめん、オレ、……」
「だいじょうぶだよ、大丈夫……私はなんともないよ」
「大丈夫じゃないよ……こんなの」
 私の上から退いて百くんは仰向けに転がった。腕で目元を隠して、その下できっとこぼれている涙を見ないように、視線を外す。
 ごめんね、と呟いていた。それすらも自己中心的な響きが滲んで、じくじくと針で刺されるように胸が痛む。
 あの日手を伸ばしたことが、こうして彼を苦しめる理由になるなら、最初からなにも正しくなんてなかった。こんな景色は全部、誰をも魅了する百くんの笑顔に惹かれてしまった、紛れもなく愚かな私の欲の結果だ。
「私もう行くね。百くんも落ち着いたら出ておいで。すぐ帰れるように連絡回しておくから」
「次の現場、まだ間に合うでしょ。行くよ。もう平気だから」
「百くん」
「無理ぐらいさせてよ」
「……自棄なら止める。誰の得にもならないわ」
「違う」
 その表情と向き合えなくて、私は目を伏せた。弱さに決して屈さない、痛々しいくらいの芯の強さがいつだって眩しい。私が一生かけて手を伸ばしたって手に入らないもので、この子はふたたび立ち上がる。
「ほら、ディナーの約束があるんでしょ? 早く行っておいで」
 そんな何気なく柔らかな言葉と共に差し出された手を取って、足に力を込めるのがこっちはやっとなのに。
「また、連絡する。近いうちに服も持ってくるね」
「うん。ありがと」
「お疲れ様」
「美味かったらオレにもその店紹介してね」
 うん、と応えて手を振った。忘れる、と決めて踵を返す。時間にはまだ余裕があった。百くんもこれから一息つくくらいの時間はある。こんなのはたまたまで、きっとこれからは失敗もばねにしてもっとうまくやれるはず。
 ドアノブに手をかけたときには、吹っ切れた気分を呑気に取り戻していた。闇はまだ、私たちを覆っていたにもかかわらず。
「いかないで」
 腰に回った腕にも、背中を覆ったぬくもりにも、心底気が動転した。動揺して声帯は機能を失い、魔法をかけられたみたいに振り返ることさえできなかった。
「どう、したの」
「……なんでもない」
 抱きついたことのほうが嘘だったみたいに、百くんは吐息のような台詞だけを残して私から剥がれた。たった一瞬の未練のせいで、喪失感が後を引く。
「ねえ……行っていい? 今日。遅くなるかもしれないけど」
「オレの家?」
「……いや、やっぱりいい、気にしないで」
「待ってるよ」
 今度こそドアノブを引いて、光に満ち満ちた日常の中へよろけそうになる足をなんとか踏み出す。扉が閉じる音を聞きながら見渡した廊下に人気はなくて、力の抜けた長いため息が出た。
 好き、と耳元で囁かれてしまったことが一番の後悔だった。うわ言かどうかなんて区別もつかないくせに、──あんなの、もう忘れられやしない。

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