06
結局サーロインはまたにしてもらって、居酒屋で軽く乾杯してきたのち早々に切り上げて帰ってきた。友人も明日は早いとこぼしていて、お互いちょうどよかったらしい。動機の不純さによる罪悪感は、おかげでかなり薄れていた。
百くんの家のお風呂はさすがに広くて、私は逆に落ち着かなかったりもする。肌を打つシャワーはいつも、事を済ませた後にしか浴びない。事前の入浴は自宅でいつも済ませてたから。妙な緊張も一緒に洗い流してしまおうと、ボディソープを思い切り泡立てる。
ミニサイズの女性用バスセットは、いつもひっそりと洗面所の棚にしまってあるものだ。おっきいの置いとけば? と一度尋ねられたけれど、なんとなく頷けなかった。自意識過剰がナチュラルに滲んでなんとも気まずい思いになったけれど。
「薬切れてんのかな…………」
足の間に手が伸びたのも無意識だった。ぬかるんだ感触に我を取り戻す。うわ、と遠慮なくしかめっ面を浮かべて、シャワーで振り払うように洗い流す。密閉空間であるはずなのに染み付いたこのとろけた雰囲気はなんなんだろう。ああ、さっきまで百くんがシャワー浴びてたからか……と納得して、再びまぶたが落ちるように欲の中に沈みそうになる。
「っ、はぁ、もう」
よろめくように立ち上がり、浴室のドアを開けた。──途端に、目に見えて甘美な靄の濃度が上がる。
「ん、ん〜……っ、はぁ、は……」
なんとかバスタオルを掴んで身体をくるむ。水滴がひとひとと胸からお腹を伝って流れて、すべてを諦めて座り込み、股を開いた。一瞬で済むはずだ、こんなに酷い欲情ならば。
こんな体質だからだろうか、好意と性欲の差は昔からやけにはっきりと区別がついていた。だからまだ私はわかる。これはただの発情だと。アルファ側ならひとりでも済まそうと思えばどうにでもなる。この関係が切れたって、究極こちらには何の損も害もないのだ。……身も蓋もない言い方をすれば、担当している仕事相手の支えになりたいから、純粋にただ手を貸しているだけなのだ。結局、百くんじゃなくても同じことになっていたし、百くんじゃないといけない理由も残念ながらどこにもない。
……本当に?
「んッ、あっ、い……っ」
中指がきゅうきゅうと締め付けられている。入口付近をピンポイントに擦れば、蜜が溢れるように快感が身体を濡らす。閉じた瞼の裏に浮かぶのは誰の顔でもない、この胸にだって恋も愛も宿ってない。ただただ、快楽を生む物質に涎を垂らしているだけだ。
「い、くッ、ぅ、うぅ、イッちゃう……ん、ん!」
さすがにはやすぎる、と嘲るように、笑うことまではできなかった。痙攣が下半身を襲って、高すぎてひび割れた音が喉から漏れる。
乱れた息を整えながら、まったく満たされていないことに呆然としていた。百くんじゃないとだめだな、とぼやけた視界の中で呟く。──どういう意味でそんなことを思ったのか、考える体力も勇気も今は持ち合わせてなかった。
「ひとりでしちゃったの?」
「ッ、!?」
「あーあ、びちょ濡れのまんまでさあ。風邪ひいちゃうよ」
「百く、……百くん!?」
「なに?」
「い、いつから、どこから」
「んーと、……割と最初から、このドアの向こうで?」
「うそ……」
「匂い、足んなくて。近いとやっぱ安心するなあって思ってたら、始めちゃうんだもん、……ごめん、だから、わざとじゃないよ」
ばか、と呟いた声ごと食べるように百くんは私に口付ける。冷静さを保ったまま交わすそれはあまりに刺激が強くて、いままで朦朧としていたせいで曖昧だった百くんの唾液の温度や感触まで、はっきりと舌で味わえてしまう。
「いっつもオレばっかりで悪いなって思ってるよ。ちゃんと気持ちよくなってくれてんのかなって」
「私のことはいいんだよ、別に」
「よくないでしょ。……どうする、このまましていい?」
許可を出す前から百くんの指は既に晒された小さな突起ををくるくると撫ぜている。ぷっくりと存在を主張しているのが撫でられるたびあらわになって、気持ちよさに抗いたいのに腰は勝手によがっている。
「ベッド、ちゃんといく……」
「もたないでしょ」
位置の下がった頭を咎める間もなく、欲しかったものを突きつけるように、百くんの唇はためらいなく敏感なところを吸い上げた。ひくひく震えているのを宥めるように、ぬめりを舐めとっては舌で無邪気に戯れる。
「あ、ぅ、だめだめ、だめ、」
「だめ?」
「だめ……」
「オレにはきもちいよって言うのに」
「ん、やだ、だめ、」
「ねえ、ほんとは?」
催眠術のようにふわふわと、百くんの声が鼓膜から染み込む。見上げてくる視線に首を振りながら、圧をかけてくる彼の指に性器を押し付けるように求めている。
「百くんに、してあげるから、ンっ、こうたいする、」
「しないよ。オレはまだ平気」
「やだ、やだ、ねえやだ」
「怖くないよ。どうしたの」
「もも、くん、ももく……っ」
「なあに」
「やめ、て、んん、おねがい……ッ」
暴力のような波の満ち干きがゆっくりと遠ざかっていく。肩で息をする私の身体は百くんの体温が包んでくれた。ふかふかのパーカーにまとわりつく柔軟剤の匂いが安心を誘う。お風呂から上がったきり濡れっぱなしでいたこともやっと思い出して、薄い寒気もやっと自覚した。
「ひとりでいくのが怖いの? 好きじゃない?」
「わかんない、けど、しなくていい」
「んー、そっか」
「……一緒がいい」
「ふふ、うん、オレも」
バスタオルで申し訳程度に髪を拭かれる。何回かキスをされて、思い出したようにまた遠ざかる。元の距離の方が、今の私たちにとっては過去のものとなっていた。いずれこうなることだって多分私たちは十分予感していて、それでもどっちを選ぶのかは百くんが決めることだった。
決定権がないことがさみしいわけじゃなかった。それよりももっと怖いことを、私はもう知っていたから。
「明るいと顔もよく見えていいね」
「百くんの顔も、よくみえるよ」
「……なんか、慣れてる子とするとやっぱ調子狂うんだよなあ……」
「え、そんなことないのに」
「どの口が言ってんの」
パーカーを脱ごうとするのを手伝いながら、前髪の乱れた彼とまともに目が合う。こんな時に限って、胸が激しく疼く。
「……恥ずかしい、とかは思ってるよ、ちゃんと」
「全然見えないけどなあ」
音もなくなめらかに百くんのものがあてがわれる。わざわざ再開の合図を示す必要もない。──もう何回、こうして深く繋がったんだろう。洗面所の清潔な光に晒される結合部は、直視するとむしろ現実味がないくらい、あまりにも生々しい。
「上、乗る?」
壁に押し付けられる身を捩って、繋がったまま百くんの太ももの上に跨る。素肌が触れる面積が広がって、それだけで襲い来る浮遊感に脳はあっさりと侵食されていく。
「ん〜、あ、やば……」
「いっぱいいっていいよ」
百くんの耳はますます弱くなっていくばかりらしい。中で質量を増したのがはっきりとわかる。好き、とうっかり漏らしてしまいそうで、肩に唇を押し付ける。
「かわいい、当たってんの、きもちい?」
「んッ、ぁ、あ、ッ」
ふたりして浴室と洗面台の間に蹲っているせいで、肌がぴったりくっつくしかなくて、彼の心臓の音さえもあからさまに自分の胸の上で響く。余裕の無い呼吸が嬉しくて、腰を振るごとにしっくりと馴染みあう心地がする。
そのまま震えて彼が果てた後に、腰を上げて溢れた白濁を指ですくってべたべたと拭っていると、「洗っちゃった方が早いね」と百くんに抱きかかえられた。
「わ、」
「ん、どした?」
「びっくりした。重いでしょ、早く下ろしなよ」
「軽いよ。ちゃんとご飯食べてんの?」
「も、もう、いいってば、下ろして」
「え〜? 手馴れてんのかうぶなのかわかんないよ……」
椅子に座らせると、百くんはシャワーからお湯を出して、私の身体をすべすべ撫でながら丁寧に流してくれる。
「いいよ、自分でやる」
「身体冷えちゃってるよ。お湯もためる?」
「……百くん、もうだめだって」
こうなってしまったら夢を覚ますことが私の役目なのだろう。甘味にいつまでも溺れてしまったことを、後で悔やむのは多分百くんの方だ。
「なか、洗ってあげるから」
「ん、……」
足を広げると、お湯を当てながら百くんの指がぬるい力加減で出たり入ったりを繰り返す。弱い水音と流れていく粘液の中に意識が溶けていくような心地になりながら、不意に涙がこみ上げそうになる。
「百くん……もう、いいよ、自分でするから、とりあえず薬飲んできて……」
「どうしたの、具合悪い?」
平気、という返事を口にできたのかどうか定かでない。もつれ込むように百くんの身体の方に前のめりに倒れていた。百くんの手から滑り落ちたシャワーヘッドがタイルに叩きつけられて、大袈裟にけたたましい音が浴室に響く。
「ちょっと、大丈夫?」
「ん、ん、……」
「ああ、きつい? もっかいする?」
「もう、だめ、だから……でてって、」
拒む力なんてあるわけもなく、押し入ってきた百くんの熱にとうとう堪えきれなくなった涙がほろほろと溢れる感覚がした。せめて見られてなかったらいいのに、と切実に思いながら、百くんの首に腕を回す。
「もも、く、ゃ、や、」
「ん、どうしたの……、はぁ」
「すて、ないで、ん、……ね、ゃ、あッ」
「そんなことしないよ」
「んん、っは、きらいに、ならないで……ん、」
「ならないって」
下からやさしく突かれながら、指を絡めて手を握られる。そんなものを求めることを、もうやめられたつもりだったのに、かりそめで十分満足できるはずだったのに、──欲深い自分を、許したくなんてないのに。
「ほら、ここにいるから。いなくなんないでしょ?」
「ももくん、……すき」
甘く色付けされた瞳の中でどうしようもなく溺れながら、どうか笑って、と祈りたい気持ちになる。
「うん……オレも好き」
これ以上、めちゃくちゃになりたくなんてないのに。
百くんが手際よくバスタオルを敷いてくれたけれど、それでも浴室の床は固かった。百くんの身体を抱くことに夢中になっているうちに、足の節々をそこかしこにぶつけた。何度も彼を抱きしめながら、満たされてる、という錯覚に必死にすがりついた。
「ぅ、きちゃ、う、きちゃう、んん」
「いきそう?」
「おっき、い、あっあっんッ……ぁッや、や、ば、」
「っ、ん、いっしょ、に、いこ……」
視界が真っ白に包まれる。震えを閉じこめる百くんの腕の中に縋り付きながら、意識が、酷く浮遊していく。
わたしのものにしなくちゃ。
ぼんやりと、勝手にうごめく自分の身体を感じていた。そのまま百くんのうなじに唇を這わせたのも、歯を立てたのも、きっとなにもかも無意識だった。
「ッ、!? ちょっと、待って!」
動転した百くんの声で感覚を薄く取り戻す。苦しい呼吸。激しい鼓動。うねる血液。百くんの体温。怯えた表情。
……私は今、なにをしようとしたんだろう。
「さすがに、それはちゃんとしなきゃ、ね?」
「……百くん」
「だ、……大丈夫?」
私から離れて片手でうなじを庇う百くんに、視界がだんだん暗く沈んでいく。正気を取り戻せば取り戻すほど、自分のおぞましさに飲み込まれていくようで。
「ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「オレは全然平気、大丈夫! ほら、無傷だよ」
新しいタオルで身体を包まれて、背中をさすられながら膝を抱えて、それから声をあげて泣いた。
それがどういう意味の涙だったのかは、自分でもちっともわからなかった。