07
目の前に置かれたマグカップを手のひらで包むと、尽きない熱が指先まで染みて、ココアから立ち上る湯気は深夜に差し掛かった部屋の空気をいくらか柔らかくぼかした。
10月にもなると、肌寒いくらいに気温の下がった夜が秋を匂わせる。百くんはほんのすこしの隙間を隣に置いてソファに腰かけた。同時に身体が沈む静かな感触と裏腹に、筋肉は若干強ばる。
「ありがとう」
「いいえ〜」
「……あと、ごめんなさい」
百くんも隣で飲み物に口をつける。それに合わせて私も、まだ熱いくらいのココアを口に含んだ。舌がじんと痺れて、曖昧な空気の輪郭が急に鮮やかさを帯びる。
「謝んないで。オレもおんなじことしたようなもんだし」
記憶の隅に追いやられていたが、会議室での出来事も今日起きたことだった、と目眩に襲われそうになった。落差が激しすぎてちっとも信じられない。
「同じじゃないよ」
「一緒だよ。無理やりしようとした」
「……取り返しのつかなさが、違うよ」
口に含む液体は、熱くても甘ったるい風味がはっきりとわかる。まろやかにとろける優しさがあまりにもこの状況と不釣り合いで、いたたまれない気持ちのままマグカップを置いた。
「結局、二の舞なんだ」
「え?」
「……前、付き合ってた人がいたって話したでしょ」
顔は以前より上手く思い出せなくなっても、あの匂いだけは忘れることはないのかもしれない。棘で覆われたような空気にただ蜜だけが溢れる歪な空間。枯れた空気に義務的に流れるかりそめの溶けた幸福。
いつまでも覚めたくないから。それだけの理由で、性欲と愛情を、わかっていながら履き違え続けたこと。
「ヒートにあてられてると支配欲が強くなるんだよね。関係性とか、相手とかは多分あんまり関係なく」
「まあ、たしかに、そう感じたことはあるかも」
「オメガだったその恋人にも、怖い、って言われたことがあって。付き合ってたから余計、自制も効かなくて。確かに一緒に住んでたけど、最後の方はセックス以外は惰性だった」
「そう、だったんだ」
「逆に言えば、その時間だけが、異常に熱を帯びてた」
好き、なのか、欲しい、なのか、その段差はすごくささやかで、触れ合ってしまえばすぐに見失う。欲しい、という気持ちは愛で彩色するにはあまりにも暴力的で、結局誰も彼もを傷つける。最初は私を愛していたはずの恋人や、二月の雪の日に訪れたヒートを指摘されて言葉を失った百くんも。
「その人との最後も、忘れられない。別のアルファと番を組んだ、別れてくれ、って、何もかも一方的だったんだ」
「そんな。いきなり?」
「うん。……でも、そのことが悲しかったわけじゃなかった。あんなに好きでたまらなかったはずなのに、思い出だって沢山あったのに、怒りもなんにも感じなかった自分が、一番おぞましかった」
私が愛していたのはあのひとだったのか、それともあの麻薬のようなフェロモンだったのか。その答えを出したくなくて見ないふりをしているうちに、結局時間がすべてを褪せさせて本当にわからなくなってしまった。
思い出してると寒気がして、曲げた膝をまた抱えた。自分自身すらもわからない。なにもかもが頼りない。あんなことがあったのに、こんなことを繰り返すべきじゃないと思い知ったのに、浅はかに百くんに手を伸ばした。
「恋愛なんてもう出来ない。しないって決めてたのに。空っぽなくせに百くんを助けられてる気がして、勝手に嬉しくなってた。こんな……こんなのに、付き合わせてごめん」
「オレが助かってたのは、ほんとのことだよ」
「……うまくやれると、思ってたの」
涙を帯びる自分の声が恨めしい。同情を誘っているようで、どこまでも愚かで。
「ほんとは、悲しかったんじゃないの」
広い、ぬくい、手のひらが。本当は欲しかったその手のひらが、背中をそっと優しく撫で下ろす。何度も、何度も。
「つらかったけど、泣けなかっただけなんじゃないの」
「……そんなこと」
「ちゃんと好きじゃん。今でもこんな引き摺って、オレの前で泣いてる」
「違うの」
「違わないよ、なにも」
隣から大きな毛布のようなおおらかさで、百くんの身体が私を包む。抑制剤に隠されたフェロモンは大人しく鳴りを潜めていて、肺を染める百くん自身のやわい匂いがあたたかかった。
「やさしくしないで……」
「ん〜、でも、泣いてる子には優しくしてあげなさいってしつけられてるからね〜」
「罪な躾だね。誰から教わったの? 元カノ?」
「姉ちゃん。幼稚園の時からおやつ譲らされてたんだよ。ちょっとひどくない?」
ふ、と笑った隙に力が抜けて、同時に涙腺も一気に緩んだ。鼻をすする音とともにこぼれていく雫は、瞳からこぼれてはソファに跡を残す。
「百くんは、強いよね」
「あはは。なに、いきなり。そっちこそ、めちゃくちゃしたたかじゃん」
「百くんみたいになりたいなって、たまに思ってたよ」
それから、弾みをつけて立ち上がった。マグカップも空になっていた。我慢がきかなくてソファでしちゃったこともそういえばあったな、と、場違いな感慨に、逃げるように耽った。
「今日は帰るね」
「えっ、今から?」
「うん。百くんも、落ち着いて寝れないでしょ」
「そんなこと気にしなくていいって。遅いし危ないし泊まっていきな」
ゆっくり首を横に振ると、百くんは眉を下げて、尚も私を引き止める。
「なら、せめて送ってくよ」
「ヒート中なのにそんなことさせられないよ」
「車ぐらいなら運転できるって」
「明日はスケジュール空けてもらった?」
「……どうしてものやつが、一個だけ」
「それなら尚更、ゆっくり休むのも仕事のうちでしょ」
しゅんとしおれた頭の上に、ぽんと手を置く。そのまま撫でた手のひらを毛先はささやかに擽った。こんな距離にいちいち感じていた違和感の、元の形を既に取り戻せない。
「ちゃんと寝れそう?」
「大丈夫だよ。そっちこそ、身体痛くない? 大丈夫?」
「全然平気。……ありがとうね」
玄関先までわざわざついてくる彼を、素直に愛しく思った。無造作に振られる手に応えて振り返す瞬間にさえ、瑞々しい果汁のように新鮮な甘やかさは弾けた。
「じゃあね、百くん」
「うん。またね」
何気ない別れだった。名残惜しく視線を絡めるこんなやり取りだって、もう何回繰り返したかわからないもののうちの、ひとつだった。
マンションを出て最初に引っかかった信号でスマホを取りだした。なんとなく開けていた窓から、深い夜の冷ややかさがそのままの濃度で車内を濡らしていた。
"もう、こんな風に会うのはやめよっか"
逡巡をする前に素早く送信ボタンに触れたそのときに、赤信号は一瞬で色を変える。しかし、急かしてくる車も後ろにはいなかった。
"ごめんなさい"
そのまま電源を落として、スマホは助手席に放った。ハンドルを握る手も、さっきの髪の感触をまだくっきりと覚えてる。なにもかも、鮮やかに覚えてる。
でも、きっといつか、色褪せた部分から削り落ちてくみたいに忘れていって、ひとつ残らず手放せることだって、私はちゃんと知っている。