ほろびのあさ



 見知らぬ天井の下で目覚めて、最初に認識した蒸し暑さ。それは生温く身体全部を覆っていて、その不快が奇妙に心地よかった。冷房のタイマーが切れてしまった部屋は、花火のように弾けた夢の残骸と相性がいい。
 我に返るために覚め切れぬまなこを擦りながら下着を手繰り寄せようとしたが、腰にゆるく巻き付いた腕のおかげで伸ばした手は届かなかった。意地を張って指の先の先まで力を込めるが、結果は変わらない。
 まだもう少しだけ、ここにいたかった。
 思考を掠ったそんな感情に、目を閉じて別れを告げる。昨晩何度も私のことを抱きすくめた腕を起こさぬように持ち上げて、できた輪っかの隙間から潔く抜け出す。うなじを撫でる寝息に気を取られないように、その体温になんの未練も抱かないように。
 なのに、這うように絡みつくその腕に、あっけなくもう一度捕まった。
「おはよ」
 後ろを振り向くことは、できなかった。抱き合ったままお互いを見つめあえるほど、私たちは親密じゃなかったから。
「おはようございます」
 流れたのは、片恋そのものによく似ている独特の沈黙だった。自分の鼓動ばかりが規則的に響く時間。何気ない視線をただ感じるだけの時間。彼のことを、好きになってしまいそうになるタイミングは、いつだってこんな瞬間にひそんでいる。なんて、こんな言い方はただの強がりだった。──もう何百回、彼に恋をしただろう。
「ぜんぶ夢みたい」
 区切りをつけるためのつぶやきだった。涙なんて出るはずもなく、瞳も素肌も乾き切っていた。百さんとの間に浮かんでいるのは昨夜の熱そのものじゃなく、余韻なんて甘いものでもない、残骸と呼ぶのがぴったりの、冷え固まったどうしようもない違和感しか、ここにはない。
「夢じゃなかったね」
 金平糖を煮詰めたようなとろとろの囁きだけが、本物の皮を被って私のことを手招く。ありったけの麻薬を詰め込んだような沼に。
 そのままさりげなく首筋に口付けを落とされる。それは昨日触れたどの熱よりもささやかだったのに、身体も心も素直に跳ねた。ふふ、と掠れた低い笑い声が追い打ちをかける。
「思い出しちゃった?」
 今度こそ、毅然とした力で腕をほどいてやわい檻から抜け出す。微かなカーテンの隙間からは、夜でも朝でもない空の色が覗いている。布団の下にあどけなく晒されている自身の胸も太ももも、急に頼りなく思えて、ブラもショーツも手早く身につけた。
 ふと、ベッドの下で、形を崩したまま丸まって置き去りにされているワンピースを見つけた。境界線を踏み越えた瞬間の彼の瞳を、おかげで鮮やかに思い出す。
「お願い、聞いてくれてありがとうございました」
 きょとんとしたつぶらな瞳で、どういう意味? とでも言いたげにあざとく彼は首をかしげてみせた。正直後ろ髪を引かれながらも、私は霞んだ境界線をなんとかふたたび引き直そうとする。
「もう何もなかったって事にしてくれて大丈夫なので」
「待って待って。何が?」
 言わせたがるなんて無粋な人だ。わざとなのか天然なのか読めないあたり、たちが悪い。
 いっとう気に入っていた甘いデザインの高い下着も、プリーツが可愛らしいレース地のワンピースも、全部捨ててしまおうと考えていた。
「何がって、全部ですけど」
 全部全部、残り香さえもここに閉じ込めて、間違ってもこの身体の中にうっかり残してしまわないように。
「何その感じ」
 不服そうな彼の声音に驚いて、まじまじと見つめてしまう。もしかして、百さんの方は関係を続けるつもりで手を出したのだろうか。私としては断じてそのつもりはなかったのだけれど。
 だけれど、の後に続いたぬるい油断に、目を閉じる。持ちかけられても断ろう。最後まで勝手で悪いけれど、この人に関しては、いい思い出で終わりたい。
「だって、無理やり抱いてもらったし」
「え?」
 勢いをつけて起こした身体には怠さがまだ十分に残っていて、一瞬で後戻りしてしまいたくなった。なんとかベッドの端に転がっていたキャミソールを掴んで引き寄せる。
「でも、良かったですよ。やっぱり上手いんですね、百さんって。伊達にモテてないっていうか」
 沈黙に息が詰まったせいで、そんなことを大真面目に口走ってしまい、後悔しかける。けど、今更何を取り繕ったってヘマをかましたって同じことだ、と虚しくなって、その分気は軽くなる。
「……それはどうも」
 キャミソールを被りながら、その呆れたような笑い混じりの言葉を聞いていた。ほっとしていた。元々の距離よりちょっと遠ざかったところに、ちゃんと着地できたようで。
 ──なのに。
 そんな安全な視界は一瞬で崩れ、天井に塗り替えられる。私を力づくで押し倒した百さんによって。
「オレ、ちゃんと好きって言ったよね」
 綺麗なへの字に曲がった愛らしいその唇は、手首を押さえつける頑固な力とあまりにアンバランスだった。鼓動が再度、けたたましく警鐘を鳴らす。
「それはその場限りっていうか、スパイスっていうか」
「ちが、ちょっと待ってって」
 はなして、と思い切り身を捩って、不利な位置からなんとか抜け出す。昨夜とよく似た体勢はあまりに記憶をくすぐりすぎる。連想してしまった端から下腹部が浅ましく疼いていることに気づいて、嫌になる。
「もーう。ほら、おいで。逃げないの」
 たったの1℃さえも、もう私に百さんの体温を擦り付けないでほしい。切実な願いは裏切られるばかりだ。覆うように抱きくるめられて、──そんなふうに触れてくる彼の温度がやさしいことを、思い知ってしまっている。
「じゃあ、昨日オレのこと好きって言ってくれたのも、その場限りのただのスパイス?」
 目の前に迫る光に潤んだ瞳の色は、こんなに近くで焦がれてしまうと、忘れることができなくなってしまいそうなのに。わかっていながら、私は馬鹿正直に吸い込まれていく。
『そうですね。百さんって人気者だから、近付いてみたくて。だから楽しかったです。ありがとうございました』
 定めた台詞を流暢に演じようとしたのに、しまいきれていない気持ちが大きすぎて、喉がつかえる。往生際が悪くて情けないのに、何も言えない。
「一回だけでいいから抱いてほしい、とか。それでちゃんと忘れるから、とか。ねえ、そんなことできるの? できないでしょ?」
 そんな誰の目に晒しても分かり切った当然のことを、混ぜ返すみたいに聞かないでほしい。
「もう、忘れらんないでしょ?」
 肯定が欲しくてたまらないみたいに、切実な目をしないでほしい。
「なにが、言いたいの」
「……きみのことが好きだから抱いたんだよ。やだな、わかんなかった?」
 百さんの腕の力が強くなる。呼吸はもうとっくに苦しい。ここは夢の中じゃなかった。うんざりするほど現実だった。綿菓子のように掴み所のない言葉が、本当であってほしいと、すでに願ってしまっていた。
「だから、忘れたりしないでよ」
「期待、したくなるから。やめてください」
 半ば泣きそうにさえなっていた。嘘なら今すぐその事実を叩きつけてくれないと、この先に進んでもし手のひらを返されてしまったら、今度こそやっていけなくなる。
「いいよ。全部叶えてあげちゃうから」
 甘い誘いに抗うことができない。百さんのことが好きだった。どうしても欲しくて、だから手放したかったのに。
「どうやって叶えてくれるの?」と、尋ねてみたら花びらのようなキスが降って、だからそれが全部の答えだった。身につけたばかりの下着が剥がされていく。朝の中で始まる夜は愛しい味をしていた。それでもこぼれたての白い光は紛れもなく細い隙間から射している。
「冷房、つけましょうよ」
 スイッチを入れようと腕の中から抜け出そうとした身体も、性懲りも無く抱き止められて、またベッドの上に釘付けにされる。
「待てない」
「でも、暑いです」
「いいじゃん。風呂入れば済むんだし」
 欲が醸す色気に気圧されて、耳たぶを口に含んで楽しそうになぞってくる舌に、あっけなく理性をほどかれる。
「一緒にびしょびしょになろ」
 頷くわけでも、拒んだわけでもなかった。ただ抱き寄せると、嬉しそうに頬を摺り寄せて、またそこかしこを舐められる。重い吐息を漏らすと執拗になって、また探り当てられる。暴かれて愛でられて、激しく彼は慈しむ。飛び降りるように急速に、戻れない恋に落ちていた。どうか一緒に落ちてくれますように、と擦り合う熱い肌に祈りながら。

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