恋煩い
人生の中で、決定的に忘れられない一瞬。日常の中で何度も何度も薄れずに繰り返してしまうそんな記憶を抱えてしまった人は、これからどうやって生きていけばいいのだろう。
カーテンから透けた午後の陽だまりは、私のまぶたさえもくぐり抜けて薄く私の網膜に届いた。
本当に、よく覚えている。初夏のひややかな風の匂いも、頬に触れた百の指先のつめたさも。──一瞬のうちに触れた、熱い唇の感触も。
いつまでも、目を開けられなかったことも。
今過去に戻れるならあの時離れた幼い百の腕を掴んで問いただすだろう。どういうつもりでそんなことしたの? 私のことが好きなの、それともなんとも思ってないの。
わかっている。今からでも遅くない。聞きたいなら聞けばいいのだ。そんなことはもうずっとわかっている。
"ねえ、まだ覚えてる?"
そのたったひとつの問いかけで、きっと胸に抱えた鉛のような記憶はすぐに泡になって弾けてくれるだろう。──それでも。
*
夢から覚めると、微睡みの世界にいる百から名前を呼ばれていた。ひとつの音が低く吐き出されるごとに、手のひらにぬるい吐息がかかる。
ベッドのふもとで伏せる黒髪に目を見張って飛び起きて、襲い来る鈍い頭痛に自分が体調を崩していたことを思い出した。
「なんでここで寝てんの……」
怠い体を再びベッドに戻した時、もう一度、はっきりと名前を呼ばれる。苦しい夢なのだろうか。百の眉間にはかすかに皺が寄っていた。寄った皮膚に手を伸ばしかけて、ためらって引っ込める。そのまま天井に視線を戻して、深呼吸を繰り返す。
参考書を取ってきて欲しいと頼んだのは確かに私だ。でも玄関先でお母さんに預けてねという意味合いでラビチャしたのであって、上がり込んで直接持ってきてほしいという意味で言ったわけでは断じてない。一応熱はもう下がっているからいいものの、枕元で遠慮なく眠られたらいくら幼馴染といえども流石に戸惑う。
そういえば最近のガールズトークは、百に最近彼女ができたらしい、というまことしやかな噂で持ちきりだ。気にしないようにしていても、小賢しい耳はつい情報を拾う。なんていらない仕様だ、どうせなら授業を丸暗記させてほしい、とため息をつきながら、私のグループ内でもその手の話題から逃げることは叶わなかった。特にショックを受けていたミーハーな百ファンの二人が持ってくる噂話を聞き流しながらも、遠い過去の決定的なあの一瞬を思い出す頻度は確実に上がっていた。
ねえ、覚えてる? そう心の中でつぶやくのは、こんなにも簡単なのに。
「……ん」
「あ、起きた?」
「寝てた? オレ」
「うん。爆睡」
瞼の重そうな百の首筋からはほんのりとシーブリーズの香りが立ち上っている。この香りが放課後の百を包むようになる季節に入った矢先に、私は毎年必ず風邪をひく。今年も例に漏れず、学校を休んで一日ベッドに伏せっていた。
「これ、差し入れ」
百が差し出した半透明のレジ袋には、冷えピタとポカリが入っていた。ありがとう、と応えつつ、彼を見上げるこの視界の角度が懐かしいなと思ってしまう。
「冷えピタ替える? もうぬるいじゃん」
「わっ」
彼は無遠慮を無遠慮と捉える概念すら持っていないらしい。百の手のひらはごく自然に私の前髪を持ち上げて、冷えピタ越しにおでこに触れた。手際よくシートを取り出すと、そのまま流れるように貼りつける。
大きなその手のひらはちゃんと私より体温が低い。すでに熱が下がっていることがばれなかったのは、頭に上ってぱちぱち弾ける別の熱のせいだった。
「……そういうの、怒られないの?」
「怒られる? どういう意味?」
「その、彼女とかに」
「彼女?」
百の目が驚いたように丸く大きくなる。そのリアクションで、ああまたデマか、と感づく。こんなことはもう過去に何度もあった。そう珍しいことじゃない。
それでも、ジェットコースターで急降下する瞬間のように心臓がぐちゃぐちゃな鼓動を散らかしていたことにはその時自覚した。すっかり慣れたようで、確かめるまではいつまでも気が気じゃない。
弾けたての不安がまるごと現実になってしまうのも、そう遠くないいつかの話だっていうのに、私はまた悠長に胸を撫で下ろしている。
「付き合ってるって噂でもちきりだよ。ほら、吹奏楽部でフルートやってるあの子」
「ああ……一回しか喋ったないのになあ」
ショックを受けていたあの子とあの子にも教えてあげよう。あのふたり付き合ってないらしいよ、よかったね、って。──冷静にそんなことを考えるくらいにはもう平常心に戻っていた。戻れていると、思いたかった。
広くもない部屋にふたりでいると、簡単に距離を履き違えてしまいそうになる。今だって必死だ。ただの幼馴染からずれないように。勘違いなんてしないように。
「付き合ってるって思ってた? オレとその子」
「うーん、まあ。みんな言ってるし」
しゃがみ込んだ百から軽いデコピンが降り落ちる。不満げに唇を曲げた彼と、やっとまともに目があった。
「痛い。何?」
「なんでもない」
「意味わかんない……」
隣を向くとあまりに顔が近かったから、慌てて天井を見つめる。百はなんとも思わないのだろうか。心底羨ましくなった。
否が応でもわからせられる。まどろみの中でもかわせるようなありふれた会話こそ、私にとっては特別だってことを。
「なんのデコピンだったの?」
「なんでもないって。痛くなかったでしょ?」
「そういう問題じゃないでしょ」
「そういう問題じゃないの?」
「むかつく……。寝言で私のこと呼んでたくせに」
悔しくて吐き捨てた、百にとってはまるで意味不明なはずの変な意地のつもりだった。ばらしてしまうつもりも本当はなかった。
あの熱い寝言はただのたまたまだ。期待しているような特別な意味なんてない。それだけがわかるばかりの腐れ縁だったのだ、今まで。
百に連絡を入れてから、重い体を引きずってかわいいルームウェアに着替えたのもまるで馬鹿馬鹿しい。呆れてしまうくらい好きだった。告白する勇気さえ未だに持ち合わせてないくせして。
「えっ、呼ん……、マジ?」
「うん。マジ」
一瞬で朱が広がった百の頬に、まあ寝言の指摘は誰でも恥ずかしいよな、と納得しながらも、その焦りように溜飲が下がる。
「……言っとくけど。そっちも呼んでたよ。オレのこと」
「え、いつ」
「うなされてる時とか、何回も。それこそ小学生の時もじゃない?」
百のまつ毛の一本一本も、捉えてしまえるくらいに、近い。
危ない、と意識したのが遅すぎたかもしれない。打ち付ける波が砂粒をさらうように、百が私の心を奪うのはいつだって一瞬のことだ。
ちかちかと色濃いせいで手放せない記憶が巻き戻る。あの瞬間に引き戻されそうな感覚を、必死に堪えていた。ままごとのような拙い口付けだったはずなのに、封じようとしているせいで生々しさばかりが膨らんでいく。そもそも一体何年前の話なんだ。
でも確かに、この部屋で起こったことで、──ねえ百、覚えてる? 何回も繰り返した問いがちゃんと息絶えるように、足で踏みつける。
「覚えてないよ、そんな昔のこと」
「……ふうん」
踏みつけて、もうこれ以上掘り返せないようにいつも通り蓋をして。崩れないように、保てるように。
それでも思い出して表情を変えずにいられるほど、この頃の私たちは大人になりきれていなかった。だから目が合っただけでわかってしまったのだ。根拠は潤んで揺れる彼の瞳と、堪えるように噛み締められた唇だけだった。
でも、手に取るようにわかる。百も思い出していると。同じ記憶を、彼もちゃんと持っていたのだと。
「……嘘、ほんとは覚えてる」
「うん。ばればれ」
「百も、覚えてたの?」
「忘れるわけないじゃん」
優しい眼差しに包まれてもなお怖かった。ずっと怯えていたから無理もないのだろう。私だけが戻れなくなって、置いてけぼりにされることだけは避けたかった。でも、百も一緒だろうか。そう信じても、いいのだろうか。
「……オレ、彼氏できたらしいって聞いた時は気が気じゃなかったよ。嘘ってわかっても、いつ取られるんだろうってずっと冷や冷やしてた。でもそっちは飄々としてるんだもん」
「だからデコピン?」
こっくり頷いた百に、怒りと安堵が溶け合った気持ちが溢れて、何もかもが明るみに出る。彼に抱いていた恋心も、もう隠しようがないほど。閉じ込めていた分のエネルギーは膨大で、声はごまかしようもないほど震えていた。
「私だって……」
「ん?」
「百はモテるし、今はいなくてもどうせすぐ彼女作るんだろうし、好きでいても仕方ないって、わかってたのに、……わかってても、だめだったよ」
「……うん」
自分が泣いていることには、目の縁を柔らかになぞる百の親指で気づいた。こんなに近い百の輪郭さえ頼りなく揺らいでぼやける。
「オレもだめだった」
それでも、その声だけがはっきりと鼓膜に届く。
そして数年越しに交わった唇の温度が、深く体の底に染み込む。あっけなくて愛おしかった。──離れてもすぐ、性懲りもなく恋しくなる。
「ずっと好きだったよ。遅くなってごめん」
「……ほんと、信じらんない」
「じゃあ、信じてもらわなきゃ」
眉を下げて大人びた笑みを浮かべた百に、あっけなくまた口付けを奪われる。あまりの衝撃の強さに、体のそこかしこが粉々に割れてしまいそうだった。幼馴染の名残なんて今は微塵も残っていなかった。髪の撫で方も、手の握り方も、窒息しそうなほど優しい。知らない百ばかりが植え付けられていく。底が見えない感覚の中で、それでも贅沢にその体温を追っていた。
優雅な祝福を贈るように、カーテンがそよ風で膨らんだ。実りたての恋が溶ける夕暮れは柔らかく私たちを包む。こんな日ばかりを夢見ていた。
「百が好きだよ」
「ん〜、……オレは多分それより好きだよ」
「そんなことないでしょ、」
「顔真っ赤じゃん。かわいい」
それでも、夢と現実はまるで違う。通じ合うことだって恐ろしい。ひとりで抱えていた途方もない恋の量を、軽々しく越えてしまうから。