ひみつをあげる
「キスしたい」
「へ?」
百チョイスのにぎやかでポップなBGMのおかげで変な聞き間違いをしたのか。さすがに真偽を問う勇気は出なかった。
ハンドルを回す百の横顔から、高速で景色の流れていく車窓に目を逸らす。無意識の期待が聞かせた幻聴だろうか。熱くなる耳を感じながら、無心を取り戻すために隣を流れていく店の名前を心の中で読み上げていく。スーパーマーケット。ラーメン屋。ドラッグストア。大学病院。ショッピングモール。休日だからだろうか、子供連れで歩道を歩く家族も多く見かけた。
やっと平常心を取り戻しかけたところで、車がゆっくりとパーキングの入口の方向へ曲がり、そのまま乗り上げた段差の感覚をかすかに感じる。
「コンビニでも寄るの?」
「んーん」
にこにこ、と擬音が付きそうなほど完璧な愛嬌で百は口角を上げる。そのままの表情で、「めっちゃスルーされたから抗議しようと思って」と言ってのける。受け流せてなんかなかった口説き文句が脳裏にちかちかと瞬いて、せっかく冷ました熱がまた頬にこみあげる。
「聞き間違いかと思ったんです」
「だからってオレの渾身のラブコールをさあ」
「それはどうもすみませんでした。これからそういうのはちゃんと予告してくれると助かります」
「予告ってなに。今からキスしたいって言うねっていう予告?」
「そう」
「ええ? 本気? そんぐらい間抜けな方が好みなわけ?」
「……うるさいな。心臓が持たないつってんの」
年甲斐もなくむすくれて、目の前の整った小さな鼻をつまんだ。百は心底不満げに唇を曲げる。おかしくてかわいくて内心噴き出す。もっと私に必死になればいいのに、と浅ましいのぞみが顔を出すから、そっと胸の奥に押しのける。
「そこまでごねたんならしてくれるんでしょ?」
「こんなとこでしたら撮られて詰むよ」
「そのためにほら、いい後部座席があるんじゃん? ね、行こ」
「いやいや……。そんなに? 家帰ってからでもいいでしょ」
「そっちはしたくないの」
私と百の指はとっくに、ほどきがたいくらいに熱く絡まっている。その指先に込められた力が思い切り主張してくる。ねえ、ぜんぶばれてるよ。ほんとはこうやってねだられるのが好きなんでしょ? ──百の声でありありと、そんなささやきが聞こえてきそうだった。そしてそれを認める余裕すらないくらい、百の見透かした表情に興奮している。
「そんな待ち焦がれた顔しちゃって」
「うるさい」
「オレ、たまにはかわいい返事が聞きたいなあ」
鼻をつまむだけじゃ飽き足らず、私はわざわざ百の指を手放してその両頬をむにと伸ばした。そんな顔ですら憎らしいくらいにかわいげが滲んでいるのに、わざわざこっちにその役目を求めないでほしい。
「後ろ、行くんでしょ」
「ふふ。やった」
いい年した恋人同士がばかみたいに、わざわざキスをするために移動した後部座席で、誰にもばれてしまわないように身を寄せ合う。膝と膝がぶつかって、本当に触れたいところにやっとお互い辿り着く。そうして接触を許した途端に、関係の主導権は彼に移る。
触れるだけ、で済むはずがなかった。当たり前のように身体をシートに倒されて、その抗えなさに危機を悟った。鼓膜を追い立てる粘着質な音に意識が溶けこむ。
こんな狭苦しいところで際どく攻められるなんて覚悟していなかったのだ。あんな端的な呟きがこんなにしつこい欲を孕んでいるなんて誰が予想できるんだ、とやけくそになりながら、やっと与えてもらった胸いっぱいの呼吸に合わせて彼の肩を押し返す。百の身体の下で太ももまでめくれてしまっているスカートがやるせない。
「調子乗んないでよ」
「ごめんごめん。嫌だった?」
そんなことを本気で訊かないでほしい。──返事の仕方に困っているうちに、本音を悟られてしまったらしい。
「もーう。そんな顔される方がよっぽど心臓に悪いよ。ずるいじゃん」
「百には負ける」
「こんなとこで最後までできないのにさあ」
「当たり前でしょ」
ふたたび顔を近付けられて、口付けられるのかとやんわり目を閉じた。なのに、「いっしょに我慢しようね」と囁いた低い声に、油断していた背筋が甘く痺れて思わず瞼を開ける。視線を合わせたまま交わっていった濃密なキスは、気がおかしくなりそうなくらい官能的だった。容赦のない色気にただただ呑まれる。抱き合っているのが素肌じゃないだけで、相違点なんてその程度しかなくて、こんなのはもう。
「あ〜最高、大好き」
「ばかじゃないの……」
「ひとのこと言えないでしょ」
余韻に浸るようにしばらく抱きしめられていた。寝転んだまま見上げたスモークガラス越しの青空でさえ、甘い沼の底に落とされた今の私にはひどく眩しい。