pray



 玄関の錠が開く、あの軽やかな金属音。それだけをお守りのように、脳内で繰り返し繰り返し聴いていた。
 自身の太ももは既に暗闇に晒されていた。とろけた性欲に呑まれた人間は皆同じ顔をする。目の前の男も、また。
 表情も発声ももう取り繕わなくたって、あとは寝ているだけで勝手にコマが進んでいくだけだ。
 廃れたアパートの一室で、待ち焦がれているあの子の姿だけを瞼の裏に必死で描く。ねえ、間に合わなくなっちゃうよ。それとももう、今度こそ愛想を尽かしただろうか。そうか。それならそれで、その方がいい気さえしてきた。──本当に?
 男の肉厚な舌が首を這う感覚に現実を取り戻す。演じていた役の名前も忘れて、擦り寄る頭を思わず振り払っていた。それでも、ここは彼にしか許したくない場所だ。
「恥ずかしくなっちゃったかな?」
「……うん。もっと、ゆっくりして」
 かわいい、と囁く低い声を耳朶がもろに浴びる。ねえ、はやく。はやくきてよ。いいの、──百くんは私がこんな目に遭ってても、もう別に平気だっていうの。
 涙が迫り上がってきて、目を閉じる。──見計らったように、音がやってくる。騒々しい怒りに満ちた音だ。鼓動が初めて、高い音を上げる。生まれ変わったように、澄んだ心拍。
 あと一秒でホックを外されるところだった。下着はかろうじて両方無事だった。私を覆い尽くしていた男の影が一瞬で飛ぶのを気配で感じる。そっと目を開けたら、もういない。そして、彼がいる。彼だけがいる。
「ふざけんなよ」
 こんな状態を高揚とは呼ばないだろう。祈りの成就を骨の髄で味わう、この独特の感触は、私の他に誰も知らないだろう。世にも愚かでありながら、この方法でしか得られない、こんな快楽は。
「オイシイな、つって飛びついたんだ? でも女の子で遊ぶならこんな罠に嵌る可能性も考慮しなきゃね? あんたには悪いけど、これ、とんだ外れくじだよ」
 殴打、吐息、悲鳴、殴打、気迫。この部屋の空気すべてが、純粋な暴力に染まっていく。窒息しそうな恐怖が嬉しい。私のための怒りは血飛沫と化して、私の頬さえも汚す。
「なあ……いっぺん死ねよ」

 やがて、灯りが灯った。私たちを照らすベッドライトは、偽物みたいに優しくて、蜂蜜のような色をしていた。
「間に合った?」
「ギリギリアウトぐらい」
「あはは。そこは大目に見て及第点つけてよ」
「うん。いいよ。許す」
「やった。……そんな格好で寒いでしょ。服どーこだ」
 ブラウスとスカートを抱えてようやく私と向き合った百くんからは、ふわりと雨の匂いがした。伸ばした手のひらで触れると、どこもかしこも濡れている。髪の先も、袖口も。頬も首筋も氷のように冷たい。
「雨、降ってたんだ」
「あー……。傘差す余裕はなかったかな? さすがに。ごめんごめん」
「百くんの方が寒いでしょ」
「へーきヘーき! ほら、着せたげる」
 その慈愛を無視して、痛々しさを放つ真っ赤な皮膚をぎゅっと包み込む。ささやかな温もりしか持たない自分の手がもどかしい。それでも、百くんのそれよりは温度が高い。──目が合う。百くんが、柔らかい瞳で私を見つめている。
 次の瞬間、視界が反転した。息が止まる。床で死体のように意識を失っている男の、白いふくらはぎに気を取られた。目敏い彼にはすぐに見透かされて、「よそ見しないの」と冷たく吐かれる。
 ここは桃源郷でも失楽園でもない。歪んだ恋情も切実な愛情も、美化による救いを得ることはない。彼も私もあの男も、ただのありふれた生身の現実だ。
「このまま、する?」
 晒しっぱなしの白い腹に、彼が外で吸ってきた雨粒のうちの一滴が垂れ落ちる。両手首を抑えつける彼の力が、本当は痛かった。──いつだって私たちには、痛いくらいが丁度良かった。
「百くん?」
 我に返ったように、彼は枯れた瞳を取り戻す。
「や……帰ろっか」
 うら寂しい温度のままの笑顔で、百くんは静かにそう告げた。素直に頷けば、手首の枷はすぐに外れる。背を支えられて身を起こした。真白いシーツのところどころに、絶叫をそのまま示すような血痕が残っていた。
 殺伐さがなだらかに漂う、ふたりきりの巣窟と化した寝台。何食わぬ顔を取り戻した私たちは、もう一度向き合った。百くんが慣れた手つきで洋服を被せてくれる。視界は一瞬遮られて、またすぐに元に戻る。
 ふと彼を窺うと、今度は、何かに惑っているような表情をしていた。ねえ、と彼が呼ぶ。なに、と返す。息苦しさが込み上げる。
「オレのこと、好き?」
 ブラウスの布が、重力通りにずり落ちて胸を隠す。欲しがることでしか、私たちはもう、与えることができないのだろう。そんなことを、今更悟った。
「私の帰る場所は百くんだけだよ」
 喜ばしいことに。あるいは、残念ながら。
「これからどうなっても、ずっとそうだよ」
 濡れた彼の髪が首筋に擦り寄る。こんな時でも愛嬌の滲む愛情表現を選ぶところが彼らしい。束の間の正常に安心して、口の端がすこし緩む。こうしてまた、死にそうに渇いていたことさえ、懲りずに忘れてしまうのだ。百くんが私を潤してしまうから。何度も、何度でも。
「良い犬でしょ、オレ」
「よく躾けられてる。飼い主がいいんだね」
「んもー。たまには褒めてよ」
「うん……うん。いつまでも私だけのだよ」
 ひややかに濡らされていた皮膚は、唐突にぬめった熱に塗り替えられる。いつも彼の牙の餌食になる私の首筋は、容赦なく印される歯型に悦びを憶えるように作り替えられている。
「もちろん」
 忠実に狂った彼が、本当に哀れで大好きだ。あいしてる、と心の底から湧き出た感情が喉から溢れる。返事は要らない。どうせこの部屋の天井の色さえも、もうすぐに忘れてしまう。

back