星の休息

「……あれ?」
 目を丸くした百くんが私の姿を捉えて、その驚きはますますあらわになる。人参に包丁を入れる手を止めて、わたしも百くんと正面から向き合う。
「なんでいんの……? うわ、会う約束してたっけ」
「してないよ。勝手に来ただけ。おかえり、百くん」
「ただいま……。ええ、なに、どうしたの?」
 わたしがにっこり微笑んで、ようやく百くんもぎこちなく笑顔を返す。困惑と、そこそこの疲労が隠しきれずに滲んでしまっている。本当は無理に笑われるのも嫌だし、今すぐベッドに連れて行って寝てていいよと背中を押したいくらいだった。
「最近疲れてそうだったから」
「え、全然そんなことないよ」
「冷蔵庫、お酒と差し入れしか入ってなかったよ。ちゃんと食べてないでしょ」
「食べてる食べてる! ロケ弁とか……飲み会とかも詰まってたし……」
「嘘。ちょっと痩せたよ、百くん」
 不健康に肉の落ちた頬に手のひらを添わせる。薄い隈はおそらくメイクの下に隠されているのだろう。
 百くんのラビチャは本当にまめで、その返事が唐突に返ってこなくなったってことは、彼の愛が冷めたことを疑うより多忙さを案じる方が自然なのだ。優しさや愛情をそうやって信じられるのも、どれも百くんとの毎日のおかげなのだ。──そう思うと、たまらなくなった。
「私のことは気にしなくていいから、ちょっとでも寝た方がいいよ。お風呂も沸かしてるから、そっちがよかったら入っておいで」
 急に視界が吸い取られるように、真っ暗に覆われる。百くんのつけている香水の匂いがふんわりとなだれこむ。花びらのような抱き方だった。たしかに抱き合っているはずなのに物足りなくなってしまうような隙間がある。
「ありがと。でも、全然平気なんだよ」
「……しばらく、泊まっていこうか?」
「いいよいいよ! これだけでもうモモちゃんの胸はいっぱい!」
「無理しないでよ」
「してないって。ふふ。どうしたの、ほんと今日優しいね」
「百くん」
 鼓動の音に耳を澄ませる。本当の愛おしさがどんなに日々を生きる力になるのか、彼に求められるということがそっくりそのまま存在する理由になってしまうことも、私に教えたのはぜんぶ百くんだ。
「だめだよ、優しくしてほしいときは、優しくしてほしいって言わなきゃ」
 耳元で囁いて、そのままうずまるみたいに彼を抱きしめた。直に吸う肌の匂いは柔らかくて愛らしい。
 首筋が濡れたような気がしたことには、気付かなかったふりをした。器用な彼の下手くそな笑顔が、この上なく愛おしかった。
「も~、ぐずぐずになっちゃいそ……」
「ちょっとは頼ってよ。さみしいよ」
「彼女の前でぐらいかっこつけたいって思うもんなの」
「十分格好いいよ」
 大きく見開かれた百くんの潤んだ瞳に、ぶり返しみたいに恥ずかしさが襲ってさっと背を向ける。そのまま包丁を手に取って、じゃがいもをまな板に載せた。
 後ろから腰に巻き付かれて抱かれた。寄りあってくる身体に文句は言わなかった。
「もっかい言って」
「言わなくてもわかるでしょ」
「わかんない」
 かんたんに駄々っ子と化した恋人に仕方なく私は背伸びをする。欲張りなその耳を、ちゃんと満たしてあげるために。それはかつて彼が、私にそうしてくれたように。

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