一寸先はみないふり
危なかった、と思った。
人気のない路地には突き当たりの角までオレンジ色の街灯が並んでいて、地面に伸びた漆黒の影よりもむしろ、その淡く降る光の方が夜の闇を深めていた。
もう手首を掴まれているのに、もう目は合っているのに、間に合った、とわたしは呑気に、そして必死に胸を撫で下ろす。強がりだろうがなんだろうが、まだこの恋に落下していないという事実に脳を染めることで、なんとか冷静を取り戻せそうな気がしていた。
「すっごい、取って食われそうな兎みたいな顔になってるよ」
「じゃあこの顔に免じて食わないでください」
「ん〜……」
色付いた指が、そっと手の甲を舐めるように滑る。体温が高いひとだな、と、客観的な事実に私は逃げて、その微細な力に対する触覚を完全に殺そうとする。
「嫌?」
「いやです」
「オレのことが好きじゃないから?」
お酒で若干溶かされている脳が、とろりと傾ぐ。アルコールよりも強いなにかを直接注ぎ込まれてしまったみたいに使い物にならなくなる。思考力や判断力、その他すべての、危機察知能力も。
「そうです」
腕を引くと素直に振りほどかれてくれた百さんの手のひらに、はっきりと安堵した。強ばった身体中の筋肉が弛緩していく。これで終わりだ、と私はため息をつく。もう当分、こんなのはこりごりだった。
「そんなに怖いかなあ、オレ……」
「私は怖いです。次は怖がらない女の子にしたらどうですか」
「どういうこと?」
「だから、次に手を出すなら、こういうのに物怖じしない女の子に……」
名前を呼ばれて顔を上げると、穏やかに笑んだ百さんが私を真っ向から見つめていた。誰がどう見ても明らかにそれは微笑みなのに、その眼差しは月明かりのように孤独なさみしさを纏っていて、目が離せなくなる。手を繋がれていたときよりもよっぽど、私は、このひとに強く縛り付けられる。
「やだなあ、次なんてないよ」
「……え?」
「きみで最後だよ」
まばたきを繰り返したって、殴打のような衝撃はなかなか鳴り止まない。
「そんなわけないじゃないですか。この世にどんだけ女の子がいると思って、」
「拒まれちゃったんならしょうがない。でも、ずっときみだけだったし、これからもそうだよ」
「……嘘だよ、何言ってんの?」
「嘘じゃないよ」
その抱擁を受け入れてしまってますます、彼の思惑がなんにもわからなくなる。たったさっき引き返したばかりの道を、操られたように辿ってしまっている、気がする。
「わかんない? どうしたらわかってくれる?」
「……なにが」
「オレにはもう、きみしかいないってこと」
「そういうこと、誰にでも言ってるの?」
「あはは、直球ストレート」
「よく言われる」
強引さのない腕の筋に、他意はないように思えてしまう。でも、この人がたかだか女ひとりを欺くなんて容易いものだろう。この夜がのちに全部嘘になるとして、私はそれを許せるだろうか。
「いいよ、信じてもらえるまで言うから」
乗っていきなよ、送るから。百さんはさっと張り詰めた空気を断ち切ると、突き当たりの方に向かって歩き出す。タクシーで帰りますとはさすがに言えなかった。駆け足で追いつくと、彼は歩速を何気なく緩める。
「時間の無駄ですよ」
「悪いけど、往生際は悪いんだよね。そのおかげで今もここにいるようなもんだし」
「それは十分、承知してますけど」
「なら、うかうかしてちゃ駄目だよ」
熱っぽい瞳の気配だけをただ捉えた。噛んだ唇には微かな風がぶつかっただけで、思わず閉じかけた瞼に頭の先まで熱くなる。
「……ごめん、好き」
「な、んで」
手を出したいだけなら遠慮なんてしないでほしい。身ひとつで断崖に腰掛けているみたいに心臓に悪い。落ちてしまったらもう、取り返しなんてつかないのに。
「ちゃんと送るから。ごめんね」
「別に、大丈夫です」
「また、会ってくれる?」
「……予定が合えば」
「いくらでも合わせるよ」
酸素の薄い助手席で、あからさまに顔を背け、車窓を眺める。これ以上百さんの侵食を許すわけにはいかなかった。逃げる術なんてあるのだろうか、と、めぐらせた思考に浮かぶ策がひとつもないことに慄いた。
沈むような感覚から逃げるように、ただ、微睡に任せて瞼を閉じる。彼の方から何気なく重ねられた手のひらは、心臓を吐きそうになるのを抑えながら、それでもそっと握り返してしまっていた。