00
「あたしと手を切れるようせっかくのチャンスをご準備しておりますのに」
「いつ求めたの。オレが、それを」
「勝手ながらご用意しました」
「申し訳ないけど、今後のお届けは断じて不要です」
胸をとんとんと叩く。ん? と百が髪を撫でる。ふたりぶんの体温はあたしにはいつも暑いぐらいだ。凍えるぐらいの真冬だって、誰かが混じってると居心地が悪くなる。なのに百はそうじゃないのが不思議だ。昨日まで、いや、数時間前まであたしはこの人を失った気でいたのに、彼がいるこんな夜にあたしの身体はもう馴染んでる。
「なんで帰ってきたの」
口にしてからなんにも聞きたくなくて耳を塞ぎたくなった。
「やっぱこのまま連絡する気無かったんじゃんか……」
「ほとぼりが冷める場合もあります。0.1%ぐらいの確率で」
「めちゃくちゃ待ってたよ、毎日」
「だろうなってわかった。家まで来られて」
「ん。ちゃんとわかっといて」
目を閉じてるんだなとか、あたしを見つめてるなとか、百のそういうのは気配でわかる。穏やかな心臓の音に耳を当てた。
「……ごめんね」
「なんで?」
「なんでって」
どこからあげていいかわからない。そんなことを聞かれても。でもそのまま抱きしめられた。余計なことを考える隙間がすんなりとなくなる。キスしたい、と囁かれる。ちょっと迷ってから頷いた。あたしもしたいと思ってたことに戸惑った。
「欲しいなら、それをオレがあげたいって思うよ」
「……うん」
「オレが嫌になったんなら、……それも」
「うん」
「って思いたかったけどだめだったんだよ」
彼が抱えきれなくて滴っていく不安があたしに染みていく。ふたり、を感じるのは皮肉にもこんな瞬間だったりする。
「オレに悪いとか思わないでよ。だってオレも、なんて謝ればいいのかわかんないし」
「百が悪いことはないでしょ」
「そんなことないんだよ、もちかちゃんがわかってないだけ」
宥めるように大人びたリードは故意的なもので、身を預けてると幼い子どもに戻ったような気分になる。たくさん撫でられて、口付けられて、肌に触れられる。百の手の中で、ずっとずっと。
ないない
「あたしと手を切れるようせっかくのチャンスをご準備しておりますのに」
「いつ求めたの。オレが、それを」
「勝手ながらご用意しました」
「申し訳ないけど、今後のお届けは断じて不要です」
胸をとんとんと叩く。ん? と百が髪を撫でる。ふたりぶんの体温はあたしにはいつも暑いぐらいだ。凍えるぐらいの真冬だって、誰かが混じってると居心地が悪くなる。なのに百はそうじゃないのが不思議だ。昨日まで、いや、数時間前まであたしはこの人を失った気でいたのに、彼がいるこんな夜にあたしの身体はもう馴染んでる。
「なんで帰ってきたの」
口にしてからなんにも聞きたくなくて耳を塞ぎたくなった。
「やっぱこのまま連絡する気無かったんじゃんか……」
「ほとぼりが冷める場合もあります。0.1%ぐらいの確率で」
「めちゃくちゃ待ってたよ、毎日」
「だろうなってわかった。家まで来られて」
「ん。ちゃんとわかっといて」
目を閉じてるんだなとか、あたしを見つめてるなとか、百のそういうのは気配でわかる。穏やかな心臓の音に耳を当てた。
「……ごめんね」
「なんで?」
「なんでって」
どこからあげていいかわからない。そんなことを聞かれても。でもそのまま抱きしめられた。余計なことを考える隙間がすんなりとなくなる。キスしたい、と囁かれる。ちょっと迷ってから頷いた。あたしもしたいと思ってたことに戸惑った。
「欲しいなら、それをオレがあげたいって思うよ」
「……うん」
「オレが嫌になったんなら、……それも」
「うん」
「って思いたかったけどだめだったんだよ」
彼が抱えきれなくて滴っていく不安があたしに染みていく。ふたり、を感じるのは皮肉にもこんな瞬間だったりする。
「オレに悪いとか思わないでよ。だってオレも、なんて謝ればいいのかわかんないし」
「百が悪いことはないでしょ」
「そんなことないんだよ、もちかちゃんがわかってないだけ」
宥めるように大人びたリードは故意的なもので、身を預けてると幼い子どもに戻ったような気分になる。たくさん撫でられて、口付けられて、肌に触れられる。百の手の中で、ずっとずっと。
ないない
00
「ど、うしたの」
「おかえり」
「遅くなるって言ったじゃん今日」
「うーん、寝れなかったから起きてたの……」
「玄関で寝かけてたよね今?」
「こんなとこで寝るわけないじゃん」
靴を脱いだ百を抱擁で迎え入れると素直に顎が肩に乗る。嬉しい、って思ったけど言わないでおく。そとの匂いが染み付いてて、ダウンジャケットのさらさらした感触をあたしは撫でる。
「おかえりなさい」
「ん、ただいま」
百はふっと笑って、寒いよ、部屋入ろ、ってあたしの手を引いてくれる。フローリングを踏む足に熱がじんわり漏れて、それでも別に寒さを感じないぐらいだった。ふわふわの綿のように体温は心地よく上がっていく。
「楽しかった?」
「うん。久々に会うやつばっかで。盛り上がっちゃった」
「写真楽しそうだった。イタリアンいいね、また食べたい」
「良いお店だったよ。今度行こ」
「うん」
デートうれしい、って、アウターを脱いでソファに腰掛けた百のあとをそのままつける。楽しみだなーって数時間前に送られた写真を眺めてみたりする。
「素直なもちかちゃん、やっぱり調子狂うなあ……」
「もう何日目だろ」
「わかんない……オレには永遠に感じる」
「疲れる?」
「そういうことじゃないんだけど……。なんだろうね」
「好きって言わないほうがいい?」
「いや、ちがくて……うん……なんでもない。ありがと。嬉しい」
「好きって言ったら、いなくなっちゃうかと思ってたの」
百の手のひらはおおきくて強そうで、作りが違う、ってたしか前に言った気がする。手の形まで違うなんて、もうわかりあえないとあたしはそういえばこっそりあのとき絶望してたのだ。
「なのに百はいなくならないね」
「……当たり前じゃん」
「それだけでいいんだよ、あたしは」
この手の形が好きならそれだけだった。最初しかそれしかない。あたしははじまりに戻っただけで、それは怖いことじゃなかった。彼を好きでいることはこんなにも幸福なことなのだから。
「百がまだあたしを捨てないでいてくれる。それでいてあたしは百が好きで、一緒にいられることがそれだけで奇跡で、すごく嬉しい」
「……うん」
「それしかないよ」
あ、て思ったときには視界がぼやけて、あたしはどうやら泣いているらしい。
本当はつらかった。淋しいし、なんでそんな反応をされるのかもやっぱり本当にはわからない。百があたしを嫌っても好きでいることをやめられない。その決定事項だけが胸にのしかかって、幸福からすら、気を抜けば逃げ出したくなる。
「泣かないで」
「泣いてない」
「泣いてる。ごめんね、ほら、おいで」
「百が好きだし、……百が好きでいてくれるのもうれしい」
「うん」
「やっとわかったのにな……百に届けられなくてごめんね……」
「違う、違うから」
「でも、ずっと好きでいるから大丈夫だよ」
涙だって自分で拭けるようになった。でも百に拭いてもらうのも好き。そういうことを受け入れられるようになったのが嬉しい。ぜんぶ百がくれたものだった。あたしはそれを忘れない。
「大丈夫なの。百が大丈夫にしてくれたから」
「……うん、そっか」
ないない
「ど、うしたの」
「おかえり」
「遅くなるって言ったじゃん今日」
「うーん、寝れなかったから起きてたの……」
「玄関で寝かけてたよね今?」
「こんなとこで寝るわけないじゃん」
靴を脱いだ百を抱擁で迎え入れると素直に顎が肩に乗る。嬉しい、って思ったけど言わないでおく。そとの匂いが染み付いてて、ダウンジャケットのさらさらした感触をあたしは撫でる。
「おかえりなさい」
「ん、ただいま」
百はふっと笑って、寒いよ、部屋入ろ、ってあたしの手を引いてくれる。フローリングを踏む足に熱がじんわり漏れて、それでも別に寒さを感じないぐらいだった。ふわふわの綿のように体温は心地よく上がっていく。
「楽しかった?」
「うん。久々に会うやつばっかで。盛り上がっちゃった」
「写真楽しそうだった。イタリアンいいね、また食べたい」
「良いお店だったよ。今度行こ」
「うん」
デートうれしい、って、アウターを脱いでソファに腰掛けた百のあとをそのままつける。楽しみだなーって数時間前に送られた写真を眺めてみたりする。
「素直なもちかちゃん、やっぱり調子狂うなあ……」
「もう何日目だろ」
「わかんない……オレには永遠に感じる」
「疲れる?」
「そういうことじゃないんだけど……。なんだろうね」
「好きって言わないほうがいい?」
「いや、ちがくて……うん……なんでもない。ありがと。嬉しい」
「好きって言ったら、いなくなっちゃうかと思ってたの」
百の手のひらはおおきくて強そうで、作りが違う、ってたしか前に言った気がする。手の形まで違うなんて、もうわかりあえないとあたしはそういえばこっそりあのとき絶望してたのだ。
「なのに百はいなくならないね」
「……当たり前じゃん」
「それだけでいいんだよ、あたしは」
この手の形が好きならそれだけだった。最初しかそれしかない。あたしははじまりに戻っただけで、それは怖いことじゃなかった。彼を好きでいることはこんなにも幸福なことなのだから。
「百がまだあたしを捨てないでいてくれる。それでいてあたしは百が好きで、一緒にいられることがそれだけで奇跡で、すごく嬉しい」
「……うん」
「それしかないよ」
あ、て思ったときには視界がぼやけて、あたしはどうやら泣いているらしい。
本当はつらかった。淋しいし、なんでそんな反応をされるのかもやっぱり本当にはわからない。百があたしを嫌っても好きでいることをやめられない。その決定事項だけが胸にのしかかって、幸福からすら、気を抜けば逃げ出したくなる。
「泣かないで」
「泣いてない」
「泣いてる。ごめんね、ほら、おいで」
「百が好きだし、……百が好きでいてくれるのもうれしい」
「うん」
「やっとわかったのにな……百に届けられなくてごめんね……」
「違う、違うから」
「でも、ずっと好きでいるから大丈夫だよ」
涙だって自分で拭けるようになった。でも百に拭いてもらうのも好き。そういうことを受け入れられるようになったのが嬉しい。ぜんぶ百がくれたものだった。あたしはそれを忘れない。
「大丈夫なの。百が大丈夫にしてくれたから」
「……うん、そっか」
ないない
🏠 / お題 : からからとはしゃぎ疲れていくたびも確かめあって眠れる場所へ
「男と遊んで帰ってきたあとにオレに会いにくんのやめなって」
「う〜……」
「じゃあ最初っからこっち来なよってなるしさあ、……もう、大丈夫? 吐く? 水飲む?」
「でもちゃんと帰ってきた、もものとこ」
そうですねーと手渡されたぞんざいな返事とトイレに誘導してくれる背中では隠しきれていない彼の感情に気づいていた。うれしいって思ってしまっている百のために、ここに帰るのをやめられない。鍵を閉め切って追い出すなんてこと天地がひっくり返ったってこのひとはしない。むしろ何処にいたって迎えにきてくれるのだろう。
男癖が悪いから振られた、顔は好きなのにとか言われたと震える様に揺れる便器の水面を眺めながら最後の吐瀉物の様に吐き出す。
「全然嬉しくない、マジでムカつく」
遠慮のかけらもなく爆笑が降る。ぎょっとして見上げると腹を抱えて身体を震わせている。別にどんな反応を期待していたわけではないけれど流石に憮然として
「ちょっ、ねえ。全然、ぜんっぜん笑うとこじゃない!」
「もちかちゃんが悪いよ、それはさあ」
「はあ!? あたし悪くないし! 百まで何!?」
「はいはい、悪くない悪くない。もう立てそ?」
「え〜、……まだ、もうちょい」
「ん。水とってくんね」
背中ぜんぶを二回ゆっくりさすられて、その手のひらの大きさと力加減のやわらかさにうっかり涙腺がゆるみかけて、誤魔化すようにあたしは喉奥にもう一度指を突っ込む。さっきは百に突いてもらったそこを刺激すれば、もう面白いくらいに液体しか出てこない。
「男はしばらく無理だわ」
「懲りないよねえもちかちゃんも。二ヶ月前かな……も、おんなじこと言ってた」
片手にインスタントの味噌汁、片手にカップラーメンを乗せて百は向かいに腰掛ける。差し出された味噌汁を両手で包めばどっと力が抜けて背中が丸くなった。夜中のリビングで、カップラーメンの匂いがこっちまで漂ってくる。
匂いを嗅ぐ分には美味しそうだけど、ひとり分を作るといつも重くて残すので百がいるとちょうどいい量を食べられてとてもいいのだ。
「オレがいたらいいでしょって言って」
「百がいてくれたらいいよってもちかちゃんが言うのが先でしょ」
「うん……」
五時間居酒屋で飲んでたって甘くなるどころか重くなった空気が、百とならカップラーメンが出来上がるのすら待たずにやんわりと甘ったるくほどけていく。隣にやってきた彼は「本気にしないでよ」とまたけらけら笑いながらあたしに口付ける。匂い残ってないかなとあたしはすこし心配になる。まったく気にする気配もない彼に、新手の嫌がらせかとかすかに疑う。
「もちかちゃんらしくないじゃん。なに、へこんだの?」
「……疲れた、もう」
「うん」
「百がいたらいいよ、もう……」
「投げやりだなあ」
地獄の果てのように甘やかされながら諦めてその胸に身体を預ける。ほかの味のストックの方が多いくせにあたしがいるからってシーフード味が選ばれたカップラーメンをぼんやりと眺める。
「マヨかける?」
「うん」
「食べたら一緒にお風呂入ろっか」
「百もう入ったでしょ?」
「ひとりではいんの?」
「……ふたりではいる」
じゃあそうしよ、って笑いかけられる。しみじみと眩しく思う。たとえば五年後も、こんな夜をもう一回ちょうだいと言ったら簡単にくれそうな彼のことを。
ないない
「男と遊んで帰ってきたあとにオレに会いにくんのやめなって」
「う〜……」
「じゃあ最初っからこっち来なよってなるしさあ、……もう、大丈夫? 吐く? 水飲む?」
「でもちゃんと帰ってきた、もものとこ」
そうですねーと手渡されたぞんざいな返事とトイレに誘導してくれる背中では隠しきれていない彼の感情に気づいていた。うれしいって思ってしまっている百のために、ここに帰るのをやめられない。鍵を閉め切って追い出すなんてこと天地がひっくり返ったってこのひとはしない。むしろ何処にいたって迎えにきてくれるのだろう。
男癖が悪いから振られた、顔は好きなのにとか言われたと震える様に揺れる便器の水面を眺めながら最後の吐瀉物の様に吐き出す。
「全然嬉しくない、マジでムカつく」
遠慮のかけらもなく爆笑が降る。ぎょっとして見上げると腹を抱えて身体を震わせている。別にどんな反応を期待していたわけではないけれど流石に憮然として
「ちょっ、ねえ。全然、ぜんっぜん笑うとこじゃない!」
「もちかちゃんが悪いよ、それはさあ」
「はあ!? あたし悪くないし! 百まで何!?」
「はいはい、悪くない悪くない。もう立てそ?」
「え〜、……まだ、もうちょい」
「ん。水とってくんね」
背中ぜんぶを二回ゆっくりさすられて、その手のひらの大きさと力加減のやわらかさにうっかり涙腺がゆるみかけて、誤魔化すようにあたしは喉奥にもう一度指を突っ込む。さっきは百に突いてもらったそこを刺激すれば、もう面白いくらいに液体しか出てこない。
「男はしばらく無理だわ」
「懲りないよねえもちかちゃんも。二ヶ月前かな……も、おんなじこと言ってた」
片手にインスタントの味噌汁、片手にカップラーメンを乗せて百は向かいに腰掛ける。差し出された味噌汁を両手で包めばどっと力が抜けて背中が丸くなった。夜中のリビングで、カップラーメンの匂いがこっちまで漂ってくる。
匂いを嗅ぐ分には美味しそうだけど、ひとり分を作るといつも重くて残すので百がいるとちょうどいい量を食べられてとてもいいのだ。
「オレがいたらいいでしょって言って」
「百がいてくれたらいいよってもちかちゃんが言うのが先でしょ」
「うん……」
五時間居酒屋で飲んでたって甘くなるどころか重くなった空気が、百とならカップラーメンが出来上がるのすら待たずにやんわりと甘ったるくほどけていく。隣にやってきた彼は「本気にしないでよ」とまたけらけら笑いながらあたしに口付ける。匂い残ってないかなとあたしはすこし心配になる。まったく気にする気配もない彼に、新手の嫌がらせかとかすかに疑う。
「もちかちゃんらしくないじゃん。なに、へこんだの?」
「……疲れた、もう」
「うん」
「百がいたらいいよ、もう……」
「投げやりだなあ」
地獄の果てのように甘やかされながら諦めてその胸に身体を預ける。ほかの味のストックの方が多いくせにあたしがいるからってシーフード味が選ばれたカップラーメンをぼんやりと眺める。
「マヨかける?」
「うん」
「食べたら一緒にお風呂入ろっか」
「百もう入ったでしょ?」
「ひとりではいんの?」
「……ふたりではいる」
じゃあそうしよ、って笑いかけられる。しみじみと眩しく思う。たとえば五年後も、こんな夜をもう一回ちょうだいと言ったら簡単にくれそうな彼のことを。
ないない
🗝
天井を眺めていた。そうしてもう眠ろうとする前の数瞬をすごしていた。恋人との喧嘩明けでお風呂に入る気力ももちろん湧かずに、目が覚めるのは深夜だろうか、そうして部屋を片付けて仕事に向かうことに、そのタスクに脳の神経を集中させた。それはあたしなりの優しさでさえあった。
チャイムが鳴る。心なしかやや控えめに。その鳴り方で、だから宅急便だとかそういう類が来たわけではないことをあたしは何故か直感してしまう。ベッドから身を起こしている。カメラに写っている彼を確認したらすぐに引き返そうと、そして送りつけられるであろうラビチャには寝ちゃってたと返そうと、そこまではっきりと決めていた。あたしのあたしのための、あたしだけのタスクだ。
そうして彼の再来を確認した。
「……」
インターホンは二度も鳴らない。ラビチャも来ない。オートロックにせき止められたまま、背中を向けるまでを見てしまえば駄目だった。自分でも、相当に馬鹿馬鹿しいと分かっていながらも。
「何しにきたの」
「……あ、ごめ、もちかちゃん……」
「なに、って」
「忘れもんしちゃって。いや、こんな時にごめん。別に困らないからさ、もちかちゃんとこに置いてていいなら全然このまま置いて帰んだけど」
まどろっこしい言い方にいつかの彼があたしの部屋のドアを叩いて訪ねてきた日のことを思い出した。懐かしいような何も変わっていないことに落胆するような気分を味わいながら、あたしはそれ以上親切にする義理ももちろんなかったのでオートロックの開錠ボタンを黙って押す。
「上がんね。……ありがと」
リビングで手持ち無沙汰で、膝を抱えて待っていた。合鍵で鍵を開ける音が聞こえて、顔を合わせるか合わせないか迷った。迷っているうちに彼は部屋に上がり込んであたしと目を合わせる。
「なに忘れたの」
「モバイルバッテリー。結構使うから助かった、けど、ごめんね。休むとこだったでしょ」
「ほんとは?」
別に怒りが冷めたわけではなかった。億劫な気持ちが萎れたわけでもない。最後に縋るような真似をするのがあたしの方なのも、それだけじゃなくて本当はこの人のなにもかもがいまは気に食わない。
この人しかいない自分も含めて、気に食わない。
「嘘ですって顔に書いてんのかな……もちかちゃんってほんと聡いよね」
「わかってんだったらしょうもない技使うのやめたら」
「あはは、怒ってんね……いちお、わざとらしくないとこに置いてったのに」
「別に置いてったことには気付かなかったよ」
でも次嘘ついたらあたしと死んでね。
酔っ払っているわけでもないのに陳腐で幼い言い回しを百は笑わない。ああこうなるから今日は彼を帰したのに、それがあたしの優しさなのに、どうしてそのまま受け取ってくれない。
「帰りたくないって言ったって聞かないの、もちかちゃんの方でしょ」
「そうだよ」
「なら、オレに嘘つかせてるのももちかちゃんだ」
違う、ごめんね、と抱きしめられる。嘘だよ、思ってない、と背中に息がかかる。胡散臭い彼の弁解は涙の堰になって、それでも本音はその壁を乗り越えていく。
「ここにいたいってあたしと同じぐらい泣いて愚図ってよ。あたしだけ、いつもあたしだけがこんなで、馬鹿みたいって思う、百といることが馬鹿馬鹿しくなる」
うん、と揺れないまま正常な鼓動を刻み続ける心臓が憎くて大好きだ。そうじゃなきゃ共倒れになってしまうのも理解していて、我儘を吐くことを許してくれる胸に今は甘える。
「さっき、一緒に死にたいって」
「……忘れて」
「でもほんとのことでしょ? んで、もちかちゃんがそうしたいなら一緒に死ぬよ」
「……」
「でもさ、オレはもちかちゃんとこれからもっともっとずっと一緒にいたい、だから最後の最後まで取っといてよ」
おねがい、と抱きしめられる。息ができないくらい強くそうされるのが好きなのを彼も知っている。だから、そういうことじゃない、って言えない。そうしてあたしが肯定したみたいにされる。
そうしてほしいって本当は思っていたことを、見透かされていたのかと不安になるくらいに。
「あのさ、今日、泊まってっていい?」
「……好きにしたら」
「オレ、ほんとはそれ言いに帰ってきたの」
お風呂沸かすね。そう言って向けられた背中を追いかけた。見透かした表情で彼は目尻を緩ませて、あたしの手のひらを握って振り返って、そのままふかく口付ける。
ないない
天井を眺めていた。そうしてもう眠ろうとする前の数瞬をすごしていた。恋人との喧嘩明けでお風呂に入る気力ももちろん湧かずに、目が覚めるのは深夜だろうか、そうして部屋を片付けて仕事に向かうことに、そのタスクに脳の神経を集中させた。それはあたしなりの優しさでさえあった。
チャイムが鳴る。心なしかやや控えめに。その鳴り方で、だから宅急便だとかそういう類が来たわけではないことをあたしは何故か直感してしまう。ベッドから身を起こしている。カメラに写っている彼を確認したらすぐに引き返そうと、そして送りつけられるであろうラビチャには寝ちゃってたと返そうと、そこまではっきりと決めていた。あたしのあたしのための、あたしだけのタスクだ。
そうして彼の再来を確認した。
「……」
インターホンは二度も鳴らない。ラビチャも来ない。オートロックにせき止められたまま、背中を向けるまでを見てしまえば駄目だった。自分でも、相当に馬鹿馬鹿しいと分かっていながらも。
「何しにきたの」
「……あ、ごめ、もちかちゃん……」
「なに、って」
「忘れもんしちゃって。いや、こんな時にごめん。別に困らないからさ、もちかちゃんとこに置いてていいなら全然このまま置いて帰んだけど」
まどろっこしい言い方にいつかの彼があたしの部屋のドアを叩いて訪ねてきた日のことを思い出した。懐かしいような何も変わっていないことに落胆するような気分を味わいながら、あたしはそれ以上親切にする義理ももちろんなかったのでオートロックの開錠ボタンを黙って押す。
「上がんね。……ありがと」
リビングで手持ち無沙汰で、膝を抱えて待っていた。合鍵で鍵を開ける音が聞こえて、顔を合わせるか合わせないか迷った。迷っているうちに彼は部屋に上がり込んであたしと目を合わせる。
「なに忘れたの」
「モバイルバッテリー。結構使うから助かった、けど、ごめんね。休むとこだったでしょ」
「ほんとは?」
別に怒りが冷めたわけではなかった。億劫な気持ちが萎れたわけでもない。最後に縋るような真似をするのがあたしの方なのも、それだけじゃなくて本当はこの人のなにもかもがいまは気に食わない。
この人しかいない自分も含めて、気に食わない。
「嘘ですって顔に書いてんのかな……もちかちゃんってほんと聡いよね」
「わかってんだったらしょうもない技使うのやめたら」
「あはは、怒ってんね……いちお、わざとらしくないとこに置いてったのに」
「別に置いてったことには気付かなかったよ」
でも次嘘ついたらあたしと死んでね。
酔っ払っているわけでもないのに陳腐で幼い言い回しを百は笑わない。ああこうなるから今日は彼を帰したのに、それがあたしの優しさなのに、どうしてそのまま受け取ってくれない。
「帰りたくないって言ったって聞かないの、もちかちゃんの方でしょ」
「そうだよ」
「なら、オレに嘘つかせてるのももちかちゃんだ」
違う、ごめんね、と抱きしめられる。嘘だよ、思ってない、と背中に息がかかる。胡散臭い彼の弁解は涙の堰になって、それでも本音はその壁を乗り越えていく。
「ここにいたいってあたしと同じぐらい泣いて愚図ってよ。あたしだけ、いつもあたしだけがこんなで、馬鹿みたいって思う、百といることが馬鹿馬鹿しくなる」
うん、と揺れないまま正常な鼓動を刻み続ける心臓が憎くて大好きだ。そうじゃなきゃ共倒れになってしまうのも理解していて、我儘を吐くことを許してくれる胸に今は甘える。
「さっき、一緒に死にたいって」
「……忘れて」
「でもほんとのことでしょ? んで、もちかちゃんがそうしたいなら一緒に死ぬよ」
「……」
「でもさ、オレはもちかちゃんとこれからもっともっとずっと一緒にいたい、だから最後の最後まで取っといてよ」
おねがい、と抱きしめられる。息ができないくらい強くそうされるのが好きなのを彼も知っている。だから、そういうことじゃない、って言えない。そうしてあたしが肯定したみたいにされる。
そうしてほしいって本当は思っていたことを、見透かされていたのかと不安になるくらいに。
「あのさ、今日、泊まってっていい?」
「……好きにしたら」
「オレ、ほんとはそれ言いに帰ってきたの」
お風呂沸かすね。そう言って向けられた背中を追いかけた。見透かした表情で彼は目尻を緩ませて、あたしの手のひらを握って振り返って、そのままふかく口付ける。
ないない
🌙
「うわっ。え? ちょ……」
暴力のようにクローゼットから掴み取って身に纏ってきたワンピースがきっとこれから皺になる。仰向けに寝っ転がっていた肩に鼻を押し付ける瞬間は、それでもやっと安心を実感としてあたしに染み込ませるもので、ここに来たことは間違いじゃなかったとあたしに思わせるものだった。
「もちかちゃん? か、うわ〜……びっくりした」
大きい手のひらが髪を撫でる。泣きそうだったのも忘れてあたしはそのときにはもう嬉しくて強く抱きついている。スマホで時間を確認したらしい百が掠れた笑い声を上げた。
「こんな夜中にどうしたの。ていうか今日デートするって約束してた日じゃん」
「いま百に会いに行かなきゃ死んじゃうと思って」
「また熱烈だなあ。電話してくれたら行ったのに」
「寝てたじゃん」
「起きるよ。……タクシーで来たの? なんもなかったからよかったけど、危ないし心配するって」
「あたしが行きたかったの。百に会いに行きたかった」
「それはまあ、うれしいんだけど」
胸板があたしを迎え入れる。穏やかな心音に物足りなく思うこともなくただただほっとした。背中に手のひらを回して抱きつく。息を吸う。エアコンの無機質で静かな低音があたしたちをゆっくりくるむ。
「またお酒飲んでたの?」
「うん」
「眠れなくなっちゃった?」
「そう……」
服の中に手が忍び込むのを感じながら、それにすら身を任せていた。欲情はいろんなことがぼんやりとわからないあたしにとっても、わかりやすくていいものだ。それに百はやさしい。
「くっついてるとやっぱ暑いよねー……もちかちゃんめっちゃ火照ってない?」
「ん。……ねえ、このまんま百のせいで溶けちゃったら、ちゃんと掬ってくれる?」
いいよ、任せて、と無責任な囁きに耳がますます熱くなる。キスなんてしなくたってセックスなんてしなくたってもう十分に混ざり合っているあたしたちは、それをすることでもしかしたらひとりとひとりであることを思い出そうとしているのかもしれなかった。
「百が好きなの」
「うん……オレもだよ」
「違うの、もっともっと、好きなの……」
わかってるよと言いたかったであろう彼は目元だけであたしに微笑みかけてワンピースのボタンをひとつひとつ外していく。あたしだけの内臓に、彼の内臓で触れるために。
ないない
「うわっ。え? ちょ……」
暴力のようにクローゼットから掴み取って身に纏ってきたワンピースがきっとこれから皺になる。仰向けに寝っ転がっていた肩に鼻を押し付ける瞬間は、それでもやっと安心を実感としてあたしに染み込ませるもので、ここに来たことは間違いじゃなかったとあたしに思わせるものだった。
「もちかちゃん? か、うわ〜……びっくりした」
大きい手のひらが髪を撫でる。泣きそうだったのも忘れてあたしはそのときにはもう嬉しくて強く抱きついている。スマホで時間を確認したらしい百が掠れた笑い声を上げた。
「こんな夜中にどうしたの。ていうか今日デートするって約束してた日じゃん」
「いま百に会いに行かなきゃ死んじゃうと思って」
「また熱烈だなあ。電話してくれたら行ったのに」
「寝てたじゃん」
「起きるよ。……タクシーで来たの? なんもなかったからよかったけど、危ないし心配するって」
「あたしが行きたかったの。百に会いに行きたかった」
「それはまあ、うれしいんだけど」
胸板があたしを迎え入れる。穏やかな心音に物足りなく思うこともなくただただほっとした。背中に手のひらを回して抱きつく。息を吸う。エアコンの無機質で静かな低音があたしたちをゆっくりくるむ。
「またお酒飲んでたの?」
「うん」
「眠れなくなっちゃった?」
「そう……」
服の中に手が忍び込むのを感じながら、それにすら身を任せていた。欲情はいろんなことがぼんやりとわからないあたしにとっても、わかりやすくていいものだ。それに百はやさしい。
「くっついてるとやっぱ暑いよねー……もちかちゃんめっちゃ火照ってない?」
「ん。……ねえ、このまんま百のせいで溶けちゃったら、ちゃんと掬ってくれる?」
いいよ、任せて、と無責任な囁きに耳がますます熱くなる。キスなんてしなくたってセックスなんてしなくたってもう十分に混ざり合っているあたしたちは、それをすることでもしかしたらひとりとひとりであることを思い出そうとしているのかもしれなかった。
「百が好きなの」
「うん……オレもだよ」
「違うの、もっともっと、好きなの……」
わかってるよと言いたかったであろう彼は目元だけであたしに微笑みかけてワンピースのボタンをひとつひとつ外していく。あたしだけの内臓に、彼の内臓で触れるために。
ないない
🎡
「観覧車ってなんか女友達誘いにくいんだよね。カップルの乗り物っていう固定観念が勝つ」
「オレは全然誘うけどな〜男友達でも」
「えーなら最後に乗ったのいつ?」
「いや……そう言われると。やっぱあんま乗る機会はないよ」
「あたし乗ったよ」
まだ冬の頃に、デートで。と告げたのとあたし達用の入り口が開かれてゴンドラに出迎えられたのは同時だった。百の手を引いて鉄の箱に乗り込む。歩を重ねるたびに響く軋むような振動がジェットコースターよりも手軽だけど不安定さを伴うスリルを生んで、あたしは結構好きなのだ。
「もちかちゃんの他の男との思い出上書きできんなら本望だなあ」
途中でひらいてなんてしまわないようにしっかりと扉が閉ざされてから、百は向かいで余裕を滲ませてそう微笑んだ。
「あたしも百と観覧車乗れてうれしい」
「オレも。ていうかこんな街のど真ん中にあんのも珍しいよね……結構高くまで上がんのかな」
「そうだと思うよ。まあ、カップルで乗ったらそのあと別れるらしいけどねこれ」
ええ? と語尾の上がった疑問形の相槌にあたしは愉快になる。百の視線はまだ窓の外を追っている。そんな百を見つめていた。あたしじゃないものを瞳に映している百は不思議といつまでも見つめていられる。
「あたしが学生のときに流れてたジンクス。まあでも同じ学校のひとも結構その通りになってたから言霊って怖いよね」
「それ知ってて誘いに乗ったの? ひと言かけてよ普通にさあ!」
「結構神さまも願掛けも信じるもんね、百は」
「そうだね! 超不吉!」
動いているのか止まっているのか、よく目を凝らしていないとわからないくらいとろついた上昇はなおも続く。以前に乗ったのは海辺の観覧車だったから終始景色が新鮮できれいだったけれど、見慣れた都会の真ん中から見下ろす景色なんてせいぜいこんなもので、百を眺めているほうがあたしには面白い。と気を遣わずにじっと存分に堪能していたら「さすがに照れる」と手のひらがあたしの視界を奪おうと伸びてくる。
「隣行っていい?」
「あはは。男の子ってみんなそうしたがるね」
「向かいじゃ遠く感じんだって。せっかく閉じ込められてんのにさ」
「言い方」
ぎいとひとつ大きく揺らいで、目を逸らしているあたしに百の身体が密着する。手を握られれば鼓動が簡単に呼応して乱れる。
「百の顔見にくくなった」
「景色見るために乗ってんだよね?」
「あたしには別に新鮮でもなんでもないし……」
「でもほら、きれーじゃん、結構上まできてるよ」
促されるままに窓の外に、そうして上から下に景色を眺めるとたしかに記憶にあった位置よりは高いかもしれない。「観覧車いいね、オレも好きかも」と囁く喉がそのまま肩に触れて、髪が首をくすぐる。
「あんまりくっつくとみっともないよ、結構隣の人から見えてるから」
「……ふーん、そう?」
首を傾げた百の身体はすでに遠ざかって、繋がれていた手まで大人しくほどかれる。高さはどんどん上がっていって、やがて頂上に着くのだろう。会話までほどけてしまったゴンドラの中は空調の低い唸り声だけが支配していて、ゆったりと気まずい。
「てっぺんでキスとかベタだけどさ、好きな女の子とはやりたくなんだよね」
小指の微細な体温が寄り添うように触れている。雲が唐突に切れたのか、傾き落ちかけている夕陽の光がきれいに窓から射して、はじめて目を奪われる。
「でも、キスだけはしちゃダメだって言われてたな。縁まで切れちゃうってジンクスだったよ」
ねえ見て、それよりきれいだよ。とあたしが指さす方向に、興味深そうに百の視線が動く。ほんとだと嬉しそうに笑むその横顔を見つめていた。溶け落ちるようにあたしはその瞬間に満足していて、好きな男の子と乗るにはすごくいい乗り物なんだなとしみじみ腑に落ちる。ちょうど、頂上にたどり着いたところで。
そうして、手のひら同士をふたたび重ねられてささやかな口付けを落とされたところで。
「忠告したのに」
「オレがしたかったよ」
「降りてからいくらでもできる」
「でももちかちゃんも待ってたでしょ」
膝同士がぶつかればそこからふたつの身体の境界は甘く崩れて溶ける。腰に回った腕と高い体温に安心して、ようやく気を抜いて景色をのんびりと目に映している。
「大丈夫。そんなジンクス笑い飛ばしちゃえるって。オレたちを裂けるわけないじゃん」
「どうだか。口はいっつも達者だよね、百は」
「もー。言ってなよ。煽りすぎたって後悔しても聞いてやんないからね?」
拗ねてしまった唇が愛おしくて次はあたしから口を付けた。百が大丈夫だと言うその断言を信じてしまいたくなったのは、もう既に何回も大丈夫にしてくれたからで、その結果をもってあたしたちは愛をいまも抱えている。きっと明日も明後日も明明後日も、ずっと大事にあたしたちにそれは埋まり続けている。
ないない
「観覧車ってなんか女友達誘いにくいんだよね。カップルの乗り物っていう固定観念が勝つ」
「オレは全然誘うけどな〜男友達でも」
「えーなら最後に乗ったのいつ?」
「いや……そう言われると。やっぱあんま乗る機会はないよ」
「あたし乗ったよ」
まだ冬の頃に、デートで。と告げたのとあたし達用の入り口が開かれてゴンドラに出迎えられたのは同時だった。百の手を引いて鉄の箱に乗り込む。歩を重ねるたびに響く軋むような振動がジェットコースターよりも手軽だけど不安定さを伴うスリルを生んで、あたしは結構好きなのだ。
「もちかちゃんの他の男との思い出上書きできんなら本望だなあ」
途中でひらいてなんてしまわないようにしっかりと扉が閉ざされてから、百は向かいで余裕を滲ませてそう微笑んだ。
「あたしも百と観覧車乗れてうれしい」
「オレも。ていうかこんな街のど真ん中にあんのも珍しいよね……結構高くまで上がんのかな」
「そうだと思うよ。まあ、カップルで乗ったらそのあと別れるらしいけどねこれ」
ええ? と語尾の上がった疑問形の相槌にあたしは愉快になる。百の視線はまだ窓の外を追っている。そんな百を見つめていた。あたしじゃないものを瞳に映している百は不思議といつまでも見つめていられる。
「あたしが学生のときに流れてたジンクス。まあでも同じ学校のひとも結構その通りになってたから言霊って怖いよね」
「それ知ってて誘いに乗ったの? ひと言かけてよ普通にさあ!」
「結構神さまも願掛けも信じるもんね、百は」
「そうだね! 超不吉!」
動いているのか止まっているのか、よく目を凝らしていないとわからないくらいとろついた上昇はなおも続く。以前に乗ったのは海辺の観覧車だったから終始景色が新鮮できれいだったけれど、見慣れた都会の真ん中から見下ろす景色なんてせいぜいこんなもので、百を眺めているほうがあたしには面白い。と気を遣わずにじっと存分に堪能していたら「さすがに照れる」と手のひらがあたしの視界を奪おうと伸びてくる。
「隣行っていい?」
「あはは。男の子ってみんなそうしたがるね」
「向かいじゃ遠く感じんだって。せっかく閉じ込められてんのにさ」
「言い方」
ぎいとひとつ大きく揺らいで、目を逸らしているあたしに百の身体が密着する。手を握られれば鼓動が簡単に呼応して乱れる。
「百の顔見にくくなった」
「景色見るために乗ってんだよね?」
「あたしには別に新鮮でもなんでもないし……」
「でもほら、きれーじゃん、結構上まできてるよ」
促されるままに窓の外に、そうして上から下に景色を眺めるとたしかに記憶にあった位置よりは高いかもしれない。「観覧車いいね、オレも好きかも」と囁く喉がそのまま肩に触れて、髪が首をくすぐる。
「あんまりくっつくとみっともないよ、結構隣の人から見えてるから」
「……ふーん、そう?」
首を傾げた百の身体はすでに遠ざかって、繋がれていた手まで大人しくほどかれる。高さはどんどん上がっていって、やがて頂上に着くのだろう。会話までほどけてしまったゴンドラの中は空調の低い唸り声だけが支配していて、ゆったりと気まずい。
「てっぺんでキスとかベタだけどさ、好きな女の子とはやりたくなんだよね」
小指の微細な体温が寄り添うように触れている。雲が唐突に切れたのか、傾き落ちかけている夕陽の光がきれいに窓から射して、はじめて目を奪われる。
「でも、キスだけはしちゃダメだって言われてたな。縁まで切れちゃうってジンクスだったよ」
ねえ見て、それよりきれいだよ。とあたしが指さす方向に、興味深そうに百の視線が動く。ほんとだと嬉しそうに笑むその横顔を見つめていた。溶け落ちるようにあたしはその瞬間に満足していて、好きな男の子と乗るにはすごくいい乗り物なんだなとしみじみ腑に落ちる。ちょうど、頂上にたどり着いたところで。
そうして、手のひら同士をふたたび重ねられてささやかな口付けを落とされたところで。
「忠告したのに」
「オレがしたかったよ」
「降りてからいくらでもできる」
「でももちかちゃんも待ってたでしょ」
膝同士がぶつかればそこからふたつの身体の境界は甘く崩れて溶ける。腰に回った腕と高い体温に安心して、ようやく気を抜いて景色をのんびりと目に映している。
「大丈夫。そんなジンクス笑い飛ばしちゃえるって。オレたちを裂けるわけないじゃん」
「どうだか。口はいっつも達者だよね、百は」
「もー。言ってなよ。煽りすぎたって後悔しても聞いてやんないからね?」
拗ねてしまった唇が愛おしくて次はあたしから口を付けた。百が大丈夫だと言うその断言を信じてしまいたくなったのは、もう既に何回も大丈夫にしてくれたからで、その結果をもってあたしたちは愛をいまも抱えている。きっと明日も明後日も明明後日も、ずっと大事にあたしたちにそれは埋まり続けている。
ないない
💍
背筋はかろうじて真っ直ぐを保っていたけれど、気を抜けばカウンター席でお互いによりかかって眠り込んでしまいそうな具合ではあった。そうなってもいいと思ってしまうくらいにはお互いがお互いを許してしまっていることを、しかしあたしは許さないようにしようとしていた。残りの理性はそこにわりふっていたのだ。だからだった。
「もちかちゃんオレが結婚するって言ったら普通に祝ってくれるの?」
それはあたしが最初にそんな話題を振ったから振り返されたものなのか、冷静に考える余地もなく、それはたしかに考えたことがなかったというあたしの傲慢な油断からだった。
不安に適応していないあたしの心の器はあっけなく沸騰したその感情を吹きこぼす。
「するの?」
自分でもびっくりしてしまうぐらい細い声だった。無性に百に触れたくなって、そんなことするぐらいだったら他の男に今すぐ抱かれに行ってやるとも思っていた。思考が極端だ。自覚して、酒を煽る。
「もうやめときなよ、オレに介抱されたくないんでしょ?」
「するの?」
「……するって言ったら、って聞いてんの」
「……っ」
不安が怒りに変わってしまったらそれは期待していたってことになる。その感情のルートを知っている。悔しくて涙さえ出てきそうだ。でも、今立ち上がったってよろめくだけだ。知っている。わかっている。わからないと言いながらずっとわかっている。
「どうでもいい。知りたくないからするとしても教えないで。招待状も絶対送ってこないで。知らないところで勝手に幸せになって」
「もちかちゃん好きな子の結婚式行きたくないタイプだもんなあ」
あたしの気も知らずに百はあっけらかんと笑っている。信じられなくて、一旦お手洗いに逃げようとハンカチをつかもうとする。ちょっと、と百に手首を掴まれる。その体温に動揺する。
「触んないでよ」
「ごめん。帰られるかと思って」
「トイレ」
「行けないでしょ。一緒についてく」
「やだ」
「なんでよ」
「百から逃げるために行くから」
はいはいといった調子で彼は眉を下げる。好きなのかと聞かれれば、もうそういうのではないと答えるだろう。素面のあたしは。恋人も、今はいらないからそんな気分じゃないから作らないだけ。
お手洗いは店の外だった。喧騒から突き放されて、冷めそうな意識にお腹の底がこわくて震える。
「もちかちゃん。もちかちゃんが気にしてるだろうこと、オレはもうあんまり気にしてないよ」
「どういうこと」
「好きとか好きじゃないとか付き合うとか付き合わないとか、そういうのじゃないでしょ、もう」
「……」
「待ってって。そりゃあオレはね、オレは好きだし、ずっともちかちゃんと一緒にいたいと思ってるよ。でもさ」
そんな大きい声で、大の大人が流れるように告白をしないでほしい、幼稚な理性しかあたしにも持ち合わせがない。握られた手が心地いい。百に触られるのは、多分もう馴染みすぎて、不快だと思いようがない。
「そんなこと些細なことだって思うよ。もちかちゃんと一緒にいたらさ」
うずくまっていますぐ泣きわめきたくなるから勘弁してほしいと、さっきのざわめきが、数メートル前の暖色が恋しい。
「抱きしめて」
「……いいよ。あはは、でもこんなとこで?」
「誰もいないよ」
「かわいいなあ……」
「結婚なんかしないで」
「しないよ。ごめんね」
夏になったことを百の薄いTシャツに触れて、その早くて力強い心音に触れてようやく理解する。暑くて気だるくて億劫で、あたしはこの季節が心底嫌いだ。夜が深けたって散らない湿気が今もまとわりついている。それなのに心地がいい。静かに泣いてさえしまえるくらいに。
ないない
背筋はかろうじて真っ直ぐを保っていたけれど、気を抜けばカウンター席でお互いによりかかって眠り込んでしまいそうな具合ではあった。そうなってもいいと思ってしまうくらいにはお互いがお互いを許してしまっていることを、しかしあたしは許さないようにしようとしていた。残りの理性はそこにわりふっていたのだ。だからだった。
「もちかちゃんオレが結婚するって言ったら普通に祝ってくれるの?」
それはあたしが最初にそんな話題を振ったから振り返されたものなのか、冷静に考える余地もなく、それはたしかに考えたことがなかったというあたしの傲慢な油断からだった。
不安に適応していないあたしの心の器はあっけなく沸騰したその感情を吹きこぼす。
「するの?」
自分でもびっくりしてしまうぐらい細い声だった。無性に百に触れたくなって、そんなことするぐらいだったら他の男に今すぐ抱かれに行ってやるとも思っていた。思考が極端だ。自覚して、酒を煽る。
「もうやめときなよ、オレに介抱されたくないんでしょ?」
「するの?」
「……するって言ったら、って聞いてんの」
「……っ」
不安が怒りに変わってしまったらそれは期待していたってことになる。その感情のルートを知っている。悔しくて涙さえ出てきそうだ。でも、今立ち上がったってよろめくだけだ。知っている。わかっている。わからないと言いながらずっとわかっている。
「どうでもいい。知りたくないからするとしても教えないで。招待状も絶対送ってこないで。知らないところで勝手に幸せになって」
「もちかちゃん好きな子の結婚式行きたくないタイプだもんなあ」
あたしの気も知らずに百はあっけらかんと笑っている。信じられなくて、一旦お手洗いに逃げようとハンカチをつかもうとする。ちょっと、と百に手首を掴まれる。その体温に動揺する。
「触んないでよ」
「ごめん。帰られるかと思って」
「トイレ」
「行けないでしょ。一緒についてく」
「やだ」
「なんでよ」
「百から逃げるために行くから」
はいはいといった調子で彼は眉を下げる。好きなのかと聞かれれば、もうそういうのではないと答えるだろう。素面のあたしは。恋人も、今はいらないからそんな気分じゃないから作らないだけ。
お手洗いは店の外だった。喧騒から突き放されて、冷めそうな意識にお腹の底がこわくて震える。
「もちかちゃん。もちかちゃんが気にしてるだろうこと、オレはもうあんまり気にしてないよ」
「どういうこと」
「好きとか好きじゃないとか付き合うとか付き合わないとか、そういうのじゃないでしょ、もう」
「……」
「待ってって。そりゃあオレはね、オレは好きだし、ずっともちかちゃんと一緒にいたいと思ってるよ。でもさ」
そんな大きい声で、大の大人が流れるように告白をしないでほしい、幼稚な理性しかあたしにも持ち合わせがない。握られた手が心地いい。百に触られるのは、多分もう馴染みすぎて、不快だと思いようがない。
「そんなこと些細なことだって思うよ。もちかちゃんと一緒にいたらさ」
うずくまっていますぐ泣きわめきたくなるから勘弁してほしいと、さっきのざわめきが、数メートル前の暖色が恋しい。
「抱きしめて」
「……いいよ。あはは、でもこんなとこで?」
「誰もいないよ」
「かわいいなあ……」
「結婚なんかしないで」
「しないよ。ごめんね」
夏になったことを百の薄いTシャツに触れて、その早くて力強い心音に触れてようやく理解する。暑くて気だるくて億劫で、あたしはこの季節が心底嫌いだ。夜が深けたって散らない湿気が今もまとわりついている。それなのに心地がいい。静かに泣いてさえしまえるくらいに。
ないない
🚗
ああ惚れられてるなあとは3回目のデートから付き合って3ヶ月目の今日までずっと感じてきたことだったし、きっとそのことに少なからず満たされていた部分はあったのだろう。春先に恋人ができるのは珍しいことだった。ぬくもりのある季節にそれでも誰かを求めたいほど心に穴が空いていたとも言える。
名残惜しそうに帰りたくなさそうに、デート終わりに送ってもらう道では車内がいつも独特の沈黙で満ちる。その日もあたしはなんとなくそれを居心地悪く感じていたし、路傍にならんだファーストフード店やショッピングモールや病院やコインランドリーとか、それらの彩りに目を逸らしていた。
「綺麗に撮れてるよ、観覧車からの写真」
「もちかちゃんはしゃいでたよね。夜景好き?」
「好きだねー、綺麗だし。百は?」
「オレも好き。つぎは夜景デートにする?」
いいねとつぶやいて、タイミング悪く赤になってしまった信号に、指輪を回してやり過ごす。好かれていることに心地よくなれるのはせいぜい3ヶ月までで、期限は既に切れかけだった。でも良い奴だな、とこのひとのことを感じる気持ちもやっぱりある。
「指輪、かわいいね。新しいの?」
「うん。新しく買ったの」
「似合ってる」
さりげなく手を取られて指に触れられて、ささやかな肌の触れ合いまで気まずく感じるのにどうやってこれ以上踏み込むんだろうとあたしは不思議になる。もうこれ以上近づけやしないっていうのに。
「もちかちゃん」
信号はもうじき青になる。言い淀んでいるその瞬間にも、着々と秒針は進む。
「なあに」
「……好きだよ」
なんだかずっと我慢してたみたいな言い方をする。あたしたち付き合ってるんだし、恋人同士なんだし、そんなこと毎秒言ったって別に許される関係なのに。
百はまるで罪を告白するみたいにそうやって呟く。
「あたしもだよ」
触れられたままの手のひらを握りしめてあたしは微笑む。まるで本当にそう思ってるみたいに。仲睦まじいふたりに、せめて今は近づけるように。
「……うん」
百はぎこちなく頷いて、それで終わるはずだった。それらしく甘い会話は。さりげなくて湿っぽいスキンシップは。
「でも、もちかちゃんがオレを好きじゃなくても、オレはもちかちゃんが好きだよ」
それは断言だった。
赤信号があたしたちをせき止めることはなくて、だからあたしは流れる秒針に身を委ねるしかなかった。沈黙に意味を当てられぬまま、百に触れることもできず、ただ百のその告白を聴いた人間として、百の隣にいるほかなかった。
春先のぬるい風は許さなかった。寒さに甘えて体温に縋ることも、暑さに溶かされてふたりの汗を混ぜ合わせることも。
「……ありがとう」
受け止めた証としてそうやっておためごかしの感謝を返すしか、あたしにできることはなにもなかった。
ないない
ああ惚れられてるなあとは3回目のデートから付き合って3ヶ月目の今日までずっと感じてきたことだったし、きっとそのことに少なからず満たされていた部分はあったのだろう。春先に恋人ができるのは珍しいことだった。ぬくもりのある季節にそれでも誰かを求めたいほど心に穴が空いていたとも言える。
名残惜しそうに帰りたくなさそうに、デート終わりに送ってもらう道では車内がいつも独特の沈黙で満ちる。その日もあたしはなんとなくそれを居心地悪く感じていたし、路傍にならんだファーストフード店やショッピングモールや病院やコインランドリーとか、それらの彩りに目を逸らしていた。
「綺麗に撮れてるよ、観覧車からの写真」
「もちかちゃんはしゃいでたよね。夜景好き?」
「好きだねー、綺麗だし。百は?」
「オレも好き。つぎは夜景デートにする?」
いいねとつぶやいて、タイミング悪く赤になってしまった信号に、指輪を回してやり過ごす。好かれていることに心地よくなれるのはせいぜい3ヶ月までで、期限は既に切れかけだった。でも良い奴だな、とこのひとのことを感じる気持ちもやっぱりある。
「指輪、かわいいね。新しいの?」
「うん。新しく買ったの」
「似合ってる」
さりげなく手を取られて指に触れられて、ささやかな肌の触れ合いまで気まずく感じるのにどうやってこれ以上踏み込むんだろうとあたしは不思議になる。もうこれ以上近づけやしないっていうのに。
「もちかちゃん」
信号はもうじき青になる。言い淀んでいるその瞬間にも、着々と秒針は進む。
「なあに」
「……好きだよ」
なんだかずっと我慢してたみたいな言い方をする。あたしたち付き合ってるんだし、恋人同士なんだし、そんなこと毎秒言ったって別に許される関係なのに。
百はまるで罪を告白するみたいにそうやって呟く。
「あたしもだよ」
触れられたままの手のひらを握りしめてあたしは微笑む。まるで本当にそう思ってるみたいに。仲睦まじいふたりに、せめて今は近づけるように。
「……うん」
百はぎこちなく頷いて、それで終わるはずだった。それらしく甘い会話は。さりげなくて湿っぽいスキンシップは。
「でも、もちかちゃんがオレを好きじゃなくても、オレはもちかちゃんが好きだよ」
それは断言だった。
赤信号があたしたちをせき止めることはなくて、だからあたしは流れる秒針に身を委ねるしかなかった。沈黙に意味を当てられぬまま、百に触れることもできず、ただ百のその告白を聴いた人間として、百の隣にいるほかなかった。
春先のぬるい風は許さなかった。寒さに甘えて体温に縋ることも、暑さに溶かされてふたりの汗を混ぜ合わせることも。
「……ありがとう」
受け止めた証としてそうやっておためごかしの感謝を返すしか、あたしにできることはなにもなかった。
ないない
09
春原、という文字が担当者の欄に並んでいるのを眺めながら、さすがに、と押しとどめる気持ちとそれでもありふれた苗字ではないという事実に胸がすくんだ。PCの新しいソフト導入で試験的に使うらしいそのサービスで、果たして長い付き合いになるのかどうかは担当の説明からは伺えなかった。
そして本当に彼は現れた。季節はちょうど1周して、ようやく次の冬が顔を出し始めた頃だった。
上司と一緒に訪れていた彼と担当でもなくデスクで業務にかかりきりだったあたしが私語を挟む隙はさすがになくて、だけどはっきりと目と目が合った。何を考えているのかはもうさっぱり掴めなくなっていた。それっきり流したっていいはずだった。
でも連絡はなんとなくあたしの方から送った。さすがに消されてるかと思っていたラビチャはものの数時間であっけなく返信が来た。
『いま電話していい?』
22時5分に送られてきたメッセージに息を飲む。そうして15分迷って、いいよと返した。
『ひさしぶり』
「本当に、久しぶり」
『あはは……取引先の名前聞いて、もしかしてとは思ってたんだよ』
「担当の名前見て、まさかとは思ってたけど。連絡して大丈夫だった?」
『うん、むしろありがとう』
元気してた、と案じられてもちろんと返す。百は、と尋ねて同じ言葉が帰ってきたことにやっぱり安心した。
「また会う機会……はないかもしれないけど」
『いや、今バンさんとは連絡とってないよね?』
「ああ……うん。そうだね。そういえば」
『オレ結構最近一緒に飲んだりとかしてて。もちかちゃん……あ、呼び方、嫌?』
「いいよ、そのまんまで」
『そ? ……も、一緒にどう? とは思ってるんだよねー』
まあでも普通に嫌か、と笑うのにかぶせてべつにいい、と慎重に答えた。ちょっとの間が生まれる。右耳から左耳に、あたしは携帯を持ち替える。横になりたいなベッド行こうかな、とかイヤホンどこにやったかな、とかそういうことを考えていた。
『えっマジで!? じゃあバンさんにも声かけとく! 男ふたりで味気なかっただろうから、バンさんも喜ぶかな』
「あいつにとってあたしは絶対にそういうキャラじゃないけど、あたしも久しぶりで楽しみだよ」
百くんお風呂沸いたよ、電話まだかかる? と甘い声が割って入って沈黙が流れる。うん先入ってていいよ、とたしなめる百の声も。
「あ……ごめん。今うちきてて、彼女」
「謝ることじゃないよ。電話、切る?」
「や、大丈夫。ちょっと昔の知り合いと電話してくるって言ってるから。……良い子なんだよ。オレのこと好きでいてくれる」
「……よかった」
ベットに寝転ぶと余計糸が緩んで涙が出てきた。彼の幸福を願っていた気持ちが嘘じゃなかったことにも、あたしははっきり安堵していた。
「百はそういう子の方が相性良いと思ってたんだよね」
「……ねえ、泣いてる?」
「電話切るよ。ちゃんとその子大事にしてあげて。元カノとか誰でもやだよ」
「そういうの気にしない子だよ。飲み、バンさんにも声掛けといていい?」
どうせまた失うとわかってたからいいよと笑えた。その通話が切れてからつながる安寧だって、あたしの側にもちゃんとあった。
待ち合わせにはひとりのかわりにひとつのメッセージが届いた。
付き合うわけないだろ。二人で勝手にやれ。
既読だけをつけて返信はせずにポケットにスマホを潜らせる。そのタイミングでもう一度震えた。待っている相手のものでも十分もすれば現れるだろう。立っているだけだとやっぱり寒くて、もう片方に突っ込んであったカイロに触れる。
「もちかちゃん?」
待ちわびていたようなもう二度と会うことがないとわかったふりをしていたかったような声音が耳を震わせる。どれだけ排気ガスに塗れていてもここは冬の澄んだ空気で満ちている。だってこんなにも彼の声が凛と届く。
「百」
確かめるように呼ぶだけで懐かしさがぶり返した。蓋は簡単に開く。開いてしまったことにも気づけないようななめらかさで。
「バンさん来れなくなったって。もちかちゃんのとこにも連絡きた?」
「ああ、うん。らしいね」
うっかり滲んでしまう沈黙はお互い途方に暮れているのがあまりにもお互いに伝わりすぎてしまうもので、破ろうとするけど上手く言葉が見つからない。さっき赤に切り替わったように思えた交差点の信号はまた青になっていた。
「お店入ろっか。寒いでしょ。冷えちゃう」
「うん……ねえ」
「ん?」
「カフェとかにしとく?」
吐いた息が白く色づくほどではない。でもあたしはカイロを握りしめている。
「ふたりきりはやっぱ、ちょっと。お互い付き合ってる人もいるんだし、あたしが気遣う。軽くお茶して帰るよ」
なにかを掴み損ねた表情をする彼の、こんな顔ばかりを覚えてるのはそんなにも頻繁に百がそういう空気を発するからだった。再会したての道端でさえ。そんな表情をした百からかえってくる言葉もいつも知っていた。そっか、じゃあ仕方ないね、そうしよっか。
よく知っていた。
「別れたよ」
「え」
目を細めて百は、懐かしいよりももっと深く、恋しかった眉の下げ方を、口角のゆるめ方をして、あたしを見つめている。たとえるならひび割れる音が、今にも耳元で響きそうなほど。
「別れた」
「なんで、だって電話したのなんてついこないだ……」
「それもちかちゃんが訊くの?」
行こうとそれきり百は有無を言わせずにあたしに背中をむける。着いていくしかないような気分に陥りながらそのくせいつでも引き返せることを知っているのに、あたしは信号をお行儀よく渡っている。
近況を語り合っていた。長い旅行から帰ってきたときのような暖色の中で、ぬるいアルコールを流しながらゆっくりと酔っ払った。焼き物が多く広がる卓上さえも懐かしくて、彼の頼んだものをつまんでいた。百もおおむね嬉しそうに笑っていた。夜の中で走った緊張感の方が今は遠くて夢みたいだったみたいに思える。
「もちかちゃんの今付き合ってるひとはどんなひと?」
ん、とその時あたしは焼き鳥を口に運んでいた。ねぎまのネギは甘く舌に広がって、またビールを頼みたくなる。
「あたしを好きなひとだよ」
同じ風味の甘い角度で彼は目尻を下げる。変わってないなあと低く呟く。多分素面だったら心のうちに納められていた声だったのだろう。
「こうやって男の人と二人で飲んでるとことか見られたら」
「うん」
「多分殴られる」
「やば。今日なんつって来たの」
「会社の取引先」
「間違ってないね」
「でしょ。お仕事ってことにしてね」
頬杖をついて小洒落た電球の形をした照明を見上げる。良い仕事だねと彼は首を傾げて、店員さんを呼び止めるとビールを頼んでいる。あたしもと言う前に視線に気づいた百はもう一杯を足してくれる。
「百は」
残りのサワーを流しながらあたしは不意に泣きたくなってしまうのだ。こういう瞬間に、多分心細さのせいで。
「あたしのことわかりすぎてて怖かったよ」
「そんな理由で」
「なに?」
「そんな理由で、オレを振ったの」
酔いはいつも殴打のように、突然距離を狂わせてきてそれが好きで嫌いだ。アクセルもブレーキも壊れた車に乗っているみたいで、怖くて怖くて楽しい。
「そうだよ」
ふたつのジョッキが間に差し込まれる。軽くて濃くて頼りない泡が浮かんでいる。
「あたしがいないと生きていけないって言ってたのに」
水餃子を箸で割る。もうすっかり冷めていてあたしはげんなりする。こんな話をするにはあまりにも似つかわしくなくて、でもどんな場所よりここが良いだろう。
「別に死んでてほしかったわけじゃないし、変な気を起こされても困るけど」
「……あはは」
「は? 笑った? 今」
「もちかちゃんがそんな子だったってこと思い出した」
「別に変わったりするわけないでしょう、あたしが」
席を立とうか迷っていた。いつも両極端で、ひどく疲れる。安心させるか失望させるかどっちかでいいのに、その両方を過不足なく与えるのが彼だった。早く家に帰りたかった。今日のことも間違いとして、すでに忘れたかった。
「安心して好きでいられるひとが良かったの。こんなところみたら殴ってくれるようなひとが。百はそうじゃない」
頭を抱えていた。まるでまだ好きみたいで、確かにあたしはそう、このひとのことを忘れたことなんてなかった。そうして思い出にするのが正解のひとだった。数多といるそういう人間と同じように。
「怖かったんでしょ」
「なにが」
「オレがまだもちかちゃんのことを好きか」
手が伸びてくる。とうとう泣いている。
「そんなこと心配しなくても良いのに」
全部捨てて飛び込んだっていいとこの瞬間はいつでも思えて、その熱が1秒後には冷め始めることだって受け入れ難いくらいなのだ。本当は。
百の方だって強がっているとわかる声音だった。そんなはったりでも図星を突かれて世話がない。ビールを煽ったって気分が悪くなるばかりだった。酔いはもうあたしを連れて行ってはくれない。
「まだ好きなの、あたしのこと」
「言わせないで」
「懲りないね。さっさと前の彼女とより戻したほうがいいよ」
「やだ」
何かを言おうとして、何も言えない。伝票を掴んだあたしにも、やっぱり百は何も言わない。
「もちかちゃんから連絡が来なかったら、オレはもうもちかちゃんに会えないよ」
まるで重たい女のようなことを言う。手さえ握れない場所にいるくせに。しかしこういう関係の時はうまくいくのだ、きっと。うまくいかなくなる距離をあたしたちは骨の髄までよく知っているはずで、なのに百はまたそこに踏み込もうとしている。今すぐ恋人を呼びたい気分だった。殴られたっていいから正気に返りたい。
「脇が甘いあたしが悪かった。帰ったらすぐ連絡先消します」
「……うん、そっか」
タクシーは百が呼んでくれた。格好つけさせてと微笑んだ百はやっぱりあたしに指一本触らなかった。小賢しさにさえ腹が立った。
「彼氏と仲良くね」
「思ってないのになんでそういうこと言うの」
「幸せになってほしいんだよ。オレにはそれだけ」
「百のそういうとこ嫌いだった」
こうやって結局最後には何も起こらないところとか、つまんない。無茶苦茶な駄々を捏ねていた。なんでもよかった。だってもう二度と会わない。
「また会いたい」
心の中を読んだみたいにそういうことを囁くこんな男とは、もう二度と。
「浮気しろって言ってんの」
つっかえたみたいに彼の喉が閉じる。やっぱり面白くなくて、目の前にタクシーはこんなタイミングでやってきて、ドアは音もなく開く。手首を握られる。切実な瞳と衝突するには一瞬で十分だった。
「オレに乗り換えてよ」
そんなふうに最後に泣かないでと嘆く隙すらないまま、手は離れて熱は剥がれてあたしは白い座席に腰を落として、言葉を探す。
「一緒に乗る?」
「乗らないよ」
焦げたあとに残ったものだけを手渡して立ち去るなんてこんなに酷いことはない。
「うちついたら連絡して。待ってる。またね」
ドアが閉まる。外の音はそれきり聞こえない。残像が焼き付いている。住所を淀みなく告げたのちに、帰れない、と呟いてしまう。拾ってくれる人はもういなくなった。
ないない
春原、という文字が担当者の欄に並んでいるのを眺めながら、さすがに、と押しとどめる気持ちとそれでもありふれた苗字ではないという事実に胸がすくんだ。PCの新しいソフト導入で試験的に使うらしいそのサービスで、果たして長い付き合いになるのかどうかは担当の説明からは伺えなかった。
そして本当に彼は現れた。季節はちょうど1周して、ようやく次の冬が顔を出し始めた頃だった。
上司と一緒に訪れていた彼と担当でもなくデスクで業務にかかりきりだったあたしが私語を挟む隙はさすがになくて、だけどはっきりと目と目が合った。何を考えているのかはもうさっぱり掴めなくなっていた。それっきり流したっていいはずだった。
でも連絡はなんとなくあたしの方から送った。さすがに消されてるかと思っていたラビチャはものの数時間であっけなく返信が来た。
『いま電話していい?』
22時5分に送られてきたメッセージに息を飲む。そうして15分迷って、いいよと返した。
『ひさしぶり』
「本当に、久しぶり」
『あはは……取引先の名前聞いて、もしかしてとは思ってたんだよ』
「担当の名前見て、まさかとは思ってたけど。連絡して大丈夫だった?」
『うん、むしろありがとう』
元気してた、と案じられてもちろんと返す。百は、と尋ねて同じ言葉が帰ってきたことにやっぱり安心した。
「また会う機会……はないかもしれないけど」
『いや、今バンさんとは連絡とってないよね?』
「ああ……うん。そうだね。そういえば」
『オレ結構最近一緒に飲んだりとかしてて。もちかちゃん……あ、呼び方、嫌?』
「いいよ、そのまんまで」
『そ? ……も、一緒にどう? とは思ってるんだよねー』
まあでも普通に嫌か、と笑うのにかぶせてべつにいい、と慎重に答えた。ちょっとの間が生まれる。右耳から左耳に、あたしは携帯を持ち替える。横になりたいなベッド行こうかな、とかイヤホンどこにやったかな、とかそういうことを考えていた。
『えっマジで!? じゃあバンさんにも声かけとく! 男ふたりで味気なかっただろうから、バンさんも喜ぶかな』
「あいつにとってあたしは絶対にそういうキャラじゃないけど、あたしも久しぶりで楽しみだよ」
百くんお風呂沸いたよ、電話まだかかる? と甘い声が割って入って沈黙が流れる。うん先入ってていいよ、とたしなめる百の声も。
「あ……ごめん。今うちきてて、彼女」
「謝ることじゃないよ。電話、切る?」
「や、大丈夫。ちょっと昔の知り合いと電話してくるって言ってるから。……良い子なんだよ。オレのこと好きでいてくれる」
「……よかった」
ベットに寝転ぶと余計糸が緩んで涙が出てきた。彼の幸福を願っていた気持ちが嘘じゃなかったことにも、あたしははっきり安堵していた。
「百はそういう子の方が相性良いと思ってたんだよね」
「……ねえ、泣いてる?」
「電話切るよ。ちゃんとその子大事にしてあげて。元カノとか誰でもやだよ」
「そういうの気にしない子だよ。飲み、バンさんにも声掛けといていい?」
どうせまた失うとわかってたからいいよと笑えた。その通話が切れてからつながる安寧だって、あたしの側にもちゃんとあった。
待ち合わせにはひとりのかわりにひとつのメッセージが届いた。
付き合うわけないだろ。二人で勝手にやれ。
既読だけをつけて返信はせずにポケットにスマホを潜らせる。そのタイミングでもう一度震えた。待っている相手のものでも十分もすれば現れるだろう。立っているだけだとやっぱり寒くて、もう片方に突っ込んであったカイロに触れる。
「もちかちゃん?」
待ちわびていたようなもう二度と会うことがないとわかったふりをしていたかったような声音が耳を震わせる。どれだけ排気ガスに塗れていてもここは冬の澄んだ空気で満ちている。だってこんなにも彼の声が凛と届く。
「百」
確かめるように呼ぶだけで懐かしさがぶり返した。蓋は簡単に開く。開いてしまったことにも気づけないようななめらかさで。
「バンさん来れなくなったって。もちかちゃんのとこにも連絡きた?」
「ああ、うん。らしいね」
うっかり滲んでしまう沈黙はお互い途方に暮れているのがあまりにもお互いに伝わりすぎてしまうもので、破ろうとするけど上手く言葉が見つからない。さっき赤に切り替わったように思えた交差点の信号はまた青になっていた。
「お店入ろっか。寒いでしょ。冷えちゃう」
「うん……ねえ」
「ん?」
「カフェとかにしとく?」
吐いた息が白く色づくほどではない。でもあたしはカイロを握りしめている。
「ふたりきりはやっぱ、ちょっと。お互い付き合ってる人もいるんだし、あたしが気遣う。軽くお茶して帰るよ」
なにかを掴み損ねた表情をする彼の、こんな顔ばかりを覚えてるのはそんなにも頻繁に百がそういう空気を発するからだった。再会したての道端でさえ。そんな表情をした百からかえってくる言葉もいつも知っていた。そっか、じゃあ仕方ないね、そうしよっか。
よく知っていた。
「別れたよ」
「え」
目を細めて百は、懐かしいよりももっと深く、恋しかった眉の下げ方を、口角のゆるめ方をして、あたしを見つめている。たとえるならひび割れる音が、今にも耳元で響きそうなほど。
「別れた」
「なんで、だって電話したのなんてついこないだ……」
「それもちかちゃんが訊くの?」
行こうとそれきり百は有無を言わせずにあたしに背中をむける。着いていくしかないような気分に陥りながらそのくせいつでも引き返せることを知っているのに、あたしは信号をお行儀よく渡っている。
近況を語り合っていた。長い旅行から帰ってきたときのような暖色の中で、ぬるいアルコールを流しながらゆっくりと酔っ払った。焼き物が多く広がる卓上さえも懐かしくて、彼の頼んだものをつまんでいた。百もおおむね嬉しそうに笑っていた。夜の中で走った緊張感の方が今は遠くて夢みたいだったみたいに思える。
「もちかちゃんの今付き合ってるひとはどんなひと?」
ん、とその時あたしは焼き鳥を口に運んでいた。ねぎまのネギは甘く舌に広がって、またビールを頼みたくなる。
「あたしを好きなひとだよ」
同じ風味の甘い角度で彼は目尻を下げる。変わってないなあと低く呟く。多分素面だったら心のうちに納められていた声だったのだろう。
「こうやって男の人と二人で飲んでるとことか見られたら」
「うん」
「多分殴られる」
「やば。今日なんつって来たの」
「会社の取引先」
「間違ってないね」
「でしょ。お仕事ってことにしてね」
頬杖をついて小洒落た電球の形をした照明を見上げる。良い仕事だねと彼は首を傾げて、店員さんを呼び止めるとビールを頼んでいる。あたしもと言う前に視線に気づいた百はもう一杯を足してくれる。
「百は」
残りのサワーを流しながらあたしは不意に泣きたくなってしまうのだ。こういう瞬間に、多分心細さのせいで。
「あたしのことわかりすぎてて怖かったよ」
「そんな理由で」
「なに?」
「そんな理由で、オレを振ったの」
酔いはいつも殴打のように、突然距離を狂わせてきてそれが好きで嫌いだ。アクセルもブレーキも壊れた車に乗っているみたいで、怖くて怖くて楽しい。
「そうだよ」
ふたつのジョッキが間に差し込まれる。軽くて濃くて頼りない泡が浮かんでいる。
「あたしがいないと生きていけないって言ってたのに」
水餃子を箸で割る。もうすっかり冷めていてあたしはげんなりする。こんな話をするにはあまりにも似つかわしくなくて、でもどんな場所よりここが良いだろう。
「別に死んでてほしかったわけじゃないし、変な気を起こされても困るけど」
「……あはは」
「は? 笑った? 今」
「もちかちゃんがそんな子だったってこと思い出した」
「別に変わったりするわけないでしょう、あたしが」
席を立とうか迷っていた。いつも両極端で、ひどく疲れる。安心させるか失望させるかどっちかでいいのに、その両方を過不足なく与えるのが彼だった。早く家に帰りたかった。今日のことも間違いとして、すでに忘れたかった。
「安心して好きでいられるひとが良かったの。こんなところみたら殴ってくれるようなひとが。百はそうじゃない」
頭を抱えていた。まるでまだ好きみたいで、確かにあたしはそう、このひとのことを忘れたことなんてなかった。そうして思い出にするのが正解のひとだった。数多といるそういう人間と同じように。
「怖かったんでしょ」
「なにが」
「オレがまだもちかちゃんのことを好きか」
手が伸びてくる。とうとう泣いている。
「そんなこと心配しなくても良いのに」
全部捨てて飛び込んだっていいとこの瞬間はいつでも思えて、その熱が1秒後には冷め始めることだって受け入れ難いくらいなのだ。本当は。
百の方だって強がっているとわかる声音だった。そんなはったりでも図星を突かれて世話がない。ビールを煽ったって気分が悪くなるばかりだった。酔いはもうあたしを連れて行ってはくれない。
「まだ好きなの、あたしのこと」
「言わせないで」
「懲りないね。さっさと前の彼女とより戻したほうがいいよ」
「やだ」
何かを言おうとして、何も言えない。伝票を掴んだあたしにも、やっぱり百は何も言わない。
「もちかちゃんから連絡が来なかったら、オレはもうもちかちゃんに会えないよ」
まるで重たい女のようなことを言う。手さえ握れない場所にいるくせに。しかしこういう関係の時はうまくいくのだ、きっと。うまくいかなくなる距離をあたしたちは骨の髄までよく知っているはずで、なのに百はまたそこに踏み込もうとしている。今すぐ恋人を呼びたい気分だった。殴られたっていいから正気に返りたい。
「脇が甘いあたしが悪かった。帰ったらすぐ連絡先消します」
「……うん、そっか」
タクシーは百が呼んでくれた。格好つけさせてと微笑んだ百はやっぱりあたしに指一本触らなかった。小賢しさにさえ腹が立った。
「彼氏と仲良くね」
「思ってないのになんでそういうこと言うの」
「幸せになってほしいんだよ。オレにはそれだけ」
「百のそういうとこ嫌いだった」
こうやって結局最後には何も起こらないところとか、つまんない。無茶苦茶な駄々を捏ねていた。なんでもよかった。だってもう二度と会わない。
「また会いたい」
心の中を読んだみたいにそういうことを囁くこんな男とは、もう二度と。
「浮気しろって言ってんの」
つっかえたみたいに彼の喉が閉じる。やっぱり面白くなくて、目の前にタクシーはこんなタイミングでやってきて、ドアは音もなく開く。手首を握られる。切実な瞳と衝突するには一瞬で十分だった。
「オレに乗り換えてよ」
そんなふうに最後に泣かないでと嘆く隙すらないまま、手は離れて熱は剥がれてあたしは白い座席に腰を落として、言葉を探す。
「一緒に乗る?」
「乗らないよ」
焦げたあとに残ったものだけを手渡して立ち去るなんてこんなに酷いことはない。
「うちついたら連絡して。待ってる。またね」
ドアが閉まる。外の音はそれきり聞こえない。残像が焼き付いている。住所を淀みなく告げたのちに、帰れない、と呟いてしまう。拾ってくれる人はもういなくなった。
ないない
08
夕方から抱き合ってベッドで眠っていた。今日は日曜らしい。シーツから柔軟剤の匂いがする。あたしが昨日洗ったばかりの布団。多分既にすこし汚してしまった布団。
ラビチャを見返す。別れたらトーク履歴も消すしブロックもする。百とのそれは消せずにいた。まだ別にいいかとも思っていた。そんなに急がなくても、もうぜんぶ終わった。
「前の男?」
覗き込んできた彼は二、三年前の元彼だった。連絡が来たので応じたら家が見つかるまでうちにいていいよと快く言ってくれたし、ホテルとネカフェを交互してなんとか週を越してこれを続けるのは無理だなと確信したあたしにはその舟に乗らない手はなかった。
「そう」
「毎日おはようとおやすみ送りあってたの? 相手学生?」
「いや」
「しつこいやつだったんだ」
「愛情深かったんだよ」
「お、未練あんの?」
「ない」
「はは、もちかちゃんぽい」
軽薄にあたしを理解した素振りをしてそのくせなんにもわかってない。そういうところが嫌だったし、人はやっぱり変わらない。だってあたしが変わらないから、それは当然のことだった。
「でもちょっと重そ。相性悪かったんじゃない?」
そう笑われる、からつられてそうかもとあたしも笑っていた。本当にそれはそうだろう。相性という言葉で片付けられないぐらいには。
どうして出会ってしまったんだろう。埋められない穴の縁をなぞる。帰りたくはなくて、思い出は思い出すだけで心を温める。あんなにも愛された経験はきっとあたしを今後も幾度となく救うのだろう。
「お風呂沸かしてくる」
「ん。ありがとー」
「ご飯、なにがいい? んー、鯖あるしそれ焼こうか?」
「いいね。でもなんでもいいかな、野菜も食べたい」
「うん、わかった」
笑顔を残してベッドから這い出て浴室に駆ける。シャワーでバスタブを濡らしながら、あたしも、その水音に溶かすように、薄く嗚咽を漏らしている。もう二度とあんなに愛されることはないという事実に。
✧
深夜だった。バイブだったけどすぐに気付いた。ブロックしなくても連絡が来ることはなかったから放ってたけれど、間違ってたのかもしれないとあたしは背筋が寒くなる。
到底無視なんてできなくて、隣の男が起きる方が怖くて、あたしは携帯を握りしめて部屋を出た。そのまま上着も着ずに裸足で靴をひっかけて玄関のドアをくぐる。着信はまだ鳴っていた。
「百」
飛び降りるみたいに呟いた。安寧を捨ててもここに帰りたいとあたしは自覚して、それが間違いであることを認めたくなかった、せめて今だけは。
「……出、てくれると思っ、……てなかった」
「いつかも聞いた、それ」
「ひさしぶり」
「そうでもない。2週間ぶり」
「うん、うん……」
動揺しすぎていて話にならないのもあのときと同じだ。懐かしくて記憶が愛おしくてちょっと泣いた。百は綺麗だ。あのときからずっと綺麗。あたしはそれを忘れたことなんてない。
「ごはん、ちゃんと食べてる? あったかいとこでちゃんと寝てる?」
「……うん、大丈夫」
「それなら、良かった」
百は、とは聞き返せなかった。そんなことたしかめなくてもよくわかった。あたしも同じことになったことがあるから。
「ごめんね、オレはもちかちゃんのこと忘れらんないけど、もちかちゃんはぜんぶ忘れていいから」
鼻を鳴らす音が聞こえる。うん、と返事する。
「ごめん、無事なのかだけ気になってて、それだけ。荷物とかも、どうしたらいいか教えてくれたらそうするし」
「家賃、半分持つよ。悪いから。引越しするならそれも」
「それはお互いだから。家賃も大丈夫。払わせて」
「じゃあ甘える。荷物は送り先あとで教えるからそこに、悪いけどよろしくお願いします」
うん、と低い声がかえってきて、電話はあたしから切った。余計なことを言わなくて済んだことに心の底からほっとした。今すぐ迎えに来てと口走りたい衝動をずっと抑えていた。そんなことしたら今度こそもう二度と彼から逃げることができなくなるだろう。
受取人名は家主の男の名前にした。既読がついたのはすぐで、了解ですのスタンプが送られてきたのは朝になってからのことだった。そしてそれ以降、トークが更新されることはないままだ。ブロック中の文字が入力欄を塞いでしまったから。
ないない
夕方から抱き合ってベッドで眠っていた。今日は日曜らしい。シーツから柔軟剤の匂いがする。あたしが昨日洗ったばかりの布団。多分既にすこし汚してしまった布団。
ラビチャを見返す。別れたらトーク履歴も消すしブロックもする。百とのそれは消せずにいた。まだ別にいいかとも思っていた。そんなに急がなくても、もうぜんぶ終わった。
「前の男?」
覗き込んできた彼は二、三年前の元彼だった。連絡が来たので応じたら家が見つかるまでうちにいていいよと快く言ってくれたし、ホテルとネカフェを交互してなんとか週を越してこれを続けるのは無理だなと確信したあたしにはその舟に乗らない手はなかった。
「そう」
「毎日おはようとおやすみ送りあってたの? 相手学生?」
「いや」
「しつこいやつだったんだ」
「愛情深かったんだよ」
「お、未練あんの?」
「ない」
「はは、もちかちゃんぽい」
軽薄にあたしを理解した素振りをしてそのくせなんにもわかってない。そういうところが嫌だったし、人はやっぱり変わらない。だってあたしが変わらないから、それは当然のことだった。
「でもちょっと重そ。相性悪かったんじゃない?」
そう笑われる、からつられてそうかもとあたしも笑っていた。本当にそれはそうだろう。相性という言葉で片付けられないぐらいには。
どうして出会ってしまったんだろう。埋められない穴の縁をなぞる。帰りたくはなくて、思い出は思い出すだけで心を温める。あんなにも愛された経験はきっとあたしを今後も幾度となく救うのだろう。
「お風呂沸かしてくる」
「ん。ありがとー」
「ご飯、なにがいい? んー、鯖あるしそれ焼こうか?」
「いいね。でもなんでもいいかな、野菜も食べたい」
「うん、わかった」
笑顔を残してベッドから這い出て浴室に駆ける。シャワーでバスタブを濡らしながら、あたしも、その水音に溶かすように、薄く嗚咽を漏らしている。もう二度とあんなに愛されることはないという事実に。
✧
深夜だった。バイブだったけどすぐに気付いた。ブロックしなくても連絡が来ることはなかったから放ってたけれど、間違ってたのかもしれないとあたしは背筋が寒くなる。
到底無視なんてできなくて、隣の男が起きる方が怖くて、あたしは携帯を握りしめて部屋を出た。そのまま上着も着ずに裸足で靴をひっかけて玄関のドアをくぐる。着信はまだ鳴っていた。
「百」
飛び降りるみたいに呟いた。安寧を捨ててもここに帰りたいとあたしは自覚して、それが間違いであることを認めたくなかった、せめて今だけは。
「……出、てくれると思っ、……てなかった」
「いつかも聞いた、それ」
「ひさしぶり」
「そうでもない。2週間ぶり」
「うん、うん……」
動揺しすぎていて話にならないのもあのときと同じだ。懐かしくて記憶が愛おしくてちょっと泣いた。百は綺麗だ。あのときからずっと綺麗。あたしはそれを忘れたことなんてない。
「ごはん、ちゃんと食べてる? あったかいとこでちゃんと寝てる?」
「……うん、大丈夫」
「それなら、良かった」
百は、とは聞き返せなかった。そんなことたしかめなくてもよくわかった。あたしも同じことになったことがあるから。
「ごめんね、オレはもちかちゃんのこと忘れらんないけど、もちかちゃんはぜんぶ忘れていいから」
鼻を鳴らす音が聞こえる。うん、と返事する。
「ごめん、無事なのかだけ気になってて、それだけ。荷物とかも、どうしたらいいか教えてくれたらそうするし」
「家賃、半分持つよ。悪いから。引越しするならそれも」
「それはお互いだから。家賃も大丈夫。払わせて」
「じゃあ甘える。荷物は送り先あとで教えるからそこに、悪いけどよろしくお願いします」
うん、と低い声がかえってきて、電話はあたしから切った。余計なことを言わなくて済んだことに心の底からほっとした。今すぐ迎えに来てと口走りたい衝動をずっと抑えていた。そんなことしたら今度こそもう二度と彼から逃げることができなくなるだろう。
受取人名は家主の男の名前にした。既読がついたのはすぐで、了解ですのスタンプが送られてきたのは朝になってからのことだった。そしてそれ以降、トークが更新されることはないままだ。ブロック中の文字が入力欄を塞いでしまったから。
ないない
07
忘年会と聞いていたしカレンダーにもその予定を入れていた。生理前でお腹がすいていて、ひとりでピザでも頼もうかなと思っていた。ビールも一緒に飲んじゃおう。百といてもそういうことは全然するけど、ひとりは元々好きだし、開放感がやっぱり違う。今日は金曜日だった。
デリバリーのメニューを眺めながらうーんやっぱりひとりよりふたりで食べる方が豊富だなあと、その感覚を知ってしまっているからそう思う。また百も誘ってやろうとあたしはもう決めている。クリスマスあたりがタイミングもいいかもしれない。
これかこれだなと目星をつけたときだった。画面が突然塞がれる。百からの、着信画面によって。
買い物とかかな今から外出るの面倒だから断ろ、と思いながら出た。耳に押し付けた端末はほんのりとあたたかかった。
『百瀬くんの彼女さんですかあ?』
それはそう尋ねられた耳から体温が一気に下がったからかもしれない。
「誰……」
『あ、ほんとに出た。かわいい声じゃないですかあー、百瀬くんいっつも彼女が彼女がって、私どんなひとなのか気になっちゃって』
『おいマジでいい加減にしろって』
乱暴な怒号が聴こえる。百の声だった。静寂の満ちた部屋にはすこしそれが響きすぎる。通話は間もなく切れた。通話時間1分10秒、のすぐあとに示されるピザの画面。
なにしてたんだっけ、て思う。ピザ選んでたんだっけ。百の帰りを待ってたんだっけ。今日は一日働いてたんだっけ。やっと二ヶ月になるんだっけ。通勤時間がそれぞれ二十分延びるこの部屋にわざわざふたりで引っ越してきたんだっけ。好きって言われたんだっけ。好きって返したんだっけ。
なんでこうなったんだっけ。
こういうときに見失うくらい、記憶は頼りない。だから好きじゃない。
電話がかかってきて身体が震える。百からだった。迷ってるうちにコールが切れることはなかった。たぶん百からだった。そう思えたから出た。
『もちかちゃん』
「うん、なに?」
『さっき、ごめん、ほんとにごめん、あの』
「いいよ、全然大丈夫。気にしないで。相手も酔ってたんでしょ?」
『ちが、ああいや、それはそう、なんだけど、違くて。ごめん、帰ったらちゃんと話そう? あ、先寝ててくれていいんだけど……その』
「テンパりすぎ。大丈夫だってば。でも、帰ってくるまで待ってるね」
『ほんとに?』
「ほんと。百も大変だね。……戻んなくて平気?」
『どうでもいいよあんなん、しょうもない……早く帰りたい』
「あはは、付き合いがんばって」
うんとごめんねをあと何回か繰り返して、電話は切れた。ここにいちゃいけない、と氷が溶けるように確信した。夢はいつか醒さなくちゃ、借りたものは返さなくちゃ、巣食う病巣は取り除かなくちゃ。元のあたしと元の百に還らなくちゃ。
ずっと愛用しているスーツケースを引っ張り出して、愛おしくて抱きしめた。これがあったら何処にでも行ける。今日からあたしの相棒はこいつだけだった。
手頃な服を詰める。下着も。困らない程度のコスメと洗面用のセット。突発的で無計画な旅行は得意だった。得意でよかった。
百と出会う前のあたしを思い出すのは容易だった。だってそれが本当のあたしだったから。この1年間を夢だと思うのはあまりにも簡単だった。
あらかた詰め終わって、窓を開けて海を眺める。風が冷たくて丁度いい。この部屋が好きだった。12月も好き。そんな心地のいいものに包まれて、今まで本当に幸せだった。
シティホテルを予約しようとしたけどこの時間からなのと値段に躊躇って、ネカフェでいいかと思い直す。しばらく適当にやりすごして、早く家を見つけて住み着こう。最近まで入れっぱなしでやっと消したばかりだった賃貸アプリをインストールしてログインする。即入居可の条件ボックスにチェックを入れて、並んだ検索結果に冷静にひとつひとつ目を通す。正直どこでも良かった。無限に並んでいるその情報量はあたしを安心させて
「ただいま、」
後ろから抱きついてきた百はあたしに不安を思い出させた。
「間に合ってよかった」
荒れた息の合間で呟かれて絶望する。失えなくなるからやめて、と目を閉じる。思い出していたい、いつでも、夢が夢であることを。
「嫌だったよね、そりゃ嫌だよね、どうしよう、正直仕事なんていくらでも変えるんだけど……あはは、でもそれじゃ将来が不安になっちゃう? どうしよっかなあ」
この人のこと好きだったな、とくっきり鮮やかに、こんなときなのに実感する。好きでいてくれてた、それだけじゃなくてあたしもちゃんと好きだった。
「どうしたらまだここにいてくれんの」
「……百」
「ごめん嘘考えなくていいよオレが、オレが悪いの。わかってるからちゃんと……ちょっと待って。明日の朝にしない? 今だけ、あとちょっとだけでいいから」
「もう、無理かも」
肩が震えた。あなたが悪いとはとうとう思えない。無理なのは元からだった、そしてそれはぜんぶあたしのせいで。
「もう耐えられない、百を縛り続けることに、あたしが」
「違うよ、違う、逆だって」
右手を切実に握られる。祈るように両手で。震える吐息が手の甲にかかる。余計に苦しくなる。
「生きていけない」
「……」
「もちかちゃんがいないと、生きていけないんだって」
ごめん……と呟いた百の涙が指先に触れる。熱い雫が、何回も、何回も。好きだから壊したくなかった。あたしとあなたのままあたしたちになりたかった。それはどうしても、叶わないことだったんだろうかと虚しくなった。
「だから離れるんでしょ、……終わりに、するんでしょ」
左手で背中をさする。こういうときにやさしくする方が身勝手だ、でもまるで瀕死のように見える彼を見殺しにすることは、のちに悪魔だと罵られたとしてもできなかった。
「ありがとう、百のおかげでほんとうに幸せだった。だから百もそうなって」
「……やだ、」
「あたしみたいなひとじゃなくて、ちゃんと愛してくれるひとをみつけて」
抜け殻のようになった両手から手を抜く。一生なんてない、時間が経てばきっと薄れて忘れる。そのときにきっと百は、あたしを恨めるようになる。
スーツケースは重たくて軽かった。失うものが何も無い、馴染み深い安心がまたあたしの手元に返ってくる。ずっとこのままでいいと思った。生きていけないのはあたしも一緒だった。百とこんなに一緒にいて癒着してしまえば、あたしだってもうこれ以上は生きていけなかっただろう。
月が綺麗だった。それをもうすぐに伝えられる人もいない。化粧を落とした顔はマスクに隠して駅前まで急いだ。涙の感触がまだ、手の甲に濃く残っている。
ないない
忘年会と聞いていたしカレンダーにもその予定を入れていた。生理前でお腹がすいていて、ひとりでピザでも頼もうかなと思っていた。ビールも一緒に飲んじゃおう。百といてもそういうことは全然するけど、ひとりは元々好きだし、開放感がやっぱり違う。今日は金曜日だった。
デリバリーのメニューを眺めながらうーんやっぱりひとりよりふたりで食べる方が豊富だなあと、その感覚を知ってしまっているからそう思う。また百も誘ってやろうとあたしはもう決めている。クリスマスあたりがタイミングもいいかもしれない。
これかこれだなと目星をつけたときだった。画面が突然塞がれる。百からの、着信画面によって。
買い物とかかな今から外出るの面倒だから断ろ、と思いながら出た。耳に押し付けた端末はほんのりとあたたかかった。
『百瀬くんの彼女さんですかあ?』
それはそう尋ねられた耳から体温が一気に下がったからかもしれない。
「誰……」
『あ、ほんとに出た。かわいい声じゃないですかあー、百瀬くんいっつも彼女が彼女がって、私どんなひとなのか気になっちゃって』
『おいマジでいい加減にしろって』
乱暴な怒号が聴こえる。百の声だった。静寂の満ちた部屋にはすこしそれが響きすぎる。通話は間もなく切れた。通話時間1分10秒、のすぐあとに示されるピザの画面。
なにしてたんだっけ、て思う。ピザ選んでたんだっけ。百の帰りを待ってたんだっけ。今日は一日働いてたんだっけ。やっと二ヶ月になるんだっけ。通勤時間がそれぞれ二十分延びるこの部屋にわざわざふたりで引っ越してきたんだっけ。好きって言われたんだっけ。好きって返したんだっけ。
なんでこうなったんだっけ。
こういうときに見失うくらい、記憶は頼りない。だから好きじゃない。
電話がかかってきて身体が震える。百からだった。迷ってるうちにコールが切れることはなかった。たぶん百からだった。そう思えたから出た。
『もちかちゃん』
「うん、なに?」
『さっき、ごめん、ほんとにごめん、あの』
「いいよ、全然大丈夫。気にしないで。相手も酔ってたんでしょ?」
『ちが、ああいや、それはそう、なんだけど、違くて。ごめん、帰ったらちゃんと話そう? あ、先寝ててくれていいんだけど……その』
「テンパりすぎ。大丈夫だってば。でも、帰ってくるまで待ってるね」
『ほんとに?』
「ほんと。百も大変だね。……戻んなくて平気?」
『どうでもいいよあんなん、しょうもない……早く帰りたい』
「あはは、付き合いがんばって」
うんとごめんねをあと何回か繰り返して、電話は切れた。ここにいちゃいけない、と氷が溶けるように確信した。夢はいつか醒さなくちゃ、借りたものは返さなくちゃ、巣食う病巣は取り除かなくちゃ。元のあたしと元の百に還らなくちゃ。
ずっと愛用しているスーツケースを引っ張り出して、愛おしくて抱きしめた。これがあったら何処にでも行ける。今日からあたしの相棒はこいつだけだった。
手頃な服を詰める。下着も。困らない程度のコスメと洗面用のセット。突発的で無計画な旅行は得意だった。得意でよかった。
百と出会う前のあたしを思い出すのは容易だった。だってそれが本当のあたしだったから。この1年間を夢だと思うのはあまりにも簡単だった。
あらかた詰め終わって、窓を開けて海を眺める。風が冷たくて丁度いい。この部屋が好きだった。12月も好き。そんな心地のいいものに包まれて、今まで本当に幸せだった。
シティホテルを予約しようとしたけどこの時間からなのと値段に躊躇って、ネカフェでいいかと思い直す。しばらく適当にやりすごして、早く家を見つけて住み着こう。最近まで入れっぱなしでやっと消したばかりだった賃貸アプリをインストールしてログインする。即入居可の条件ボックスにチェックを入れて、並んだ検索結果に冷静にひとつひとつ目を通す。正直どこでも良かった。無限に並んでいるその情報量はあたしを安心させて
「ただいま、」
後ろから抱きついてきた百はあたしに不安を思い出させた。
「間に合ってよかった」
荒れた息の合間で呟かれて絶望する。失えなくなるからやめて、と目を閉じる。思い出していたい、いつでも、夢が夢であることを。
「嫌だったよね、そりゃ嫌だよね、どうしよう、正直仕事なんていくらでも変えるんだけど……あはは、でもそれじゃ将来が不安になっちゃう? どうしよっかなあ」
この人のこと好きだったな、とくっきり鮮やかに、こんなときなのに実感する。好きでいてくれてた、それだけじゃなくてあたしもちゃんと好きだった。
「どうしたらまだここにいてくれんの」
「……百」
「ごめん嘘考えなくていいよオレが、オレが悪いの。わかってるからちゃんと……ちょっと待って。明日の朝にしない? 今だけ、あとちょっとだけでいいから」
「もう、無理かも」
肩が震えた。あなたが悪いとはとうとう思えない。無理なのは元からだった、そしてそれはぜんぶあたしのせいで。
「もう耐えられない、百を縛り続けることに、あたしが」
「違うよ、違う、逆だって」
右手を切実に握られる。祈るように両手で。震える吐息が手の甲にかかる。余計に苦しくなる。
「生きていけない」
「……」
「もちかちゃんがいないと、生きていけないんだって」
ごめん……と呟いた百の涙が指先に触れる。熱い雫が、何回も、何回も。好きだから壊したくなかった。あたしとあなたのままあたしたちになりたかった。それはどうしても、叶わないことだったんだろうかと虚しくなった。
「だから離れるんでしょ、……終わりに、するんでしょ」
左手で背中をさする。こういうときにやさしくする方が身勝手だ、でもまるで瀕死のように見える彼を見殺しにすることは、のちに悪魔だと罵られたとしてもできなかった。
「ありがとう、百のおかげでほんとうに幸せだった。だから百もそうなって」
「……やだ、」
「あたしみたいなひとじゃなくて、ちゃんと愛してくれるひとをみつけて」
抜け殻のようになった両手から手を抜く。一生なんてない、時間が経てばきっと薄れて忘れる。そのときにきっと百は、あたしを恨めるようになる。
スーツケースは重たくて軽かった。失うものが何も無い、馴染み深い安心がまたあたしの手元に返ってくる。ずっとこのままでいいと思った。生きていけないのはあたしも一緒だった。百とこんなに一緒にいて癒着してしまえば、あたしだってもうこれ以上は生きていけなかっただろう。
月が綺麗だった。それをもうすぐに伝えられる人もいない。化粧を落とした顔はマスクに隠して駅前まで急いだ。涙の感触がまだ、手の甲に濃く残っている。
ないない
06
「こんなとこで寝てるの?」
肩に触れて、二の腕までを撫でられる。ソファに寝そべったあたしはそれを肌で見ている。反応を求めるように脇腹を二度手のひらでつついたあと、無反応を受け取った彼はどこかに行ってしまった。灯されたばかりの灯りが瞼越しにも眩しい。結局落ちなかった意識にも負けたような気分になりながら、芯が冷えたふくらはぎ同士を擦り合わせて暖を生もうとする。
「風邪引くよ、って。オレのこと待ってたの?」
身体を丸ごと覆ったそれはリビングに置いているブランケットにしては分厚くて、わざわざ寝室からとってきてくれたものらしい。キスしていい、と疑問符の削れた問いかけが降って、その三秒後に触れられる。舌先で唇をついて機嫌を窺われるから、断固として拒む。
「やっぱ起きてる」
寝返りを打って彼に背中を向ける。おはようと笑われて髪を梳かれる。もうすでに目は開けていた。至近距離ではっきり香った酒の匂いと知らない香水に憂鬱はピークに達していた。せめて自分が導火線に火をつけている自覚をしてほしいのに、彼の声は一貫して能天気だ。
「遅くなってごめんね。待っててくれると思ってなかった」
「……おかえり」
「ただいま。寝るならベット行く? オレが連れてっちゃおうか」
「いい」
「ご機嫌ななめだ。……こっち向いてよ」
もうひとつ寝返りを打って元通りになった。酔ってる? と尋ねる。ちょっと、と百は笑う。頬に触れるとぷっくりと熱くて「つめたい」と百は心地よさそうに目を閉じる。楽しかったんなら良かったな。素直にそう思っている。心の底から、本心として。
あたしをほったらかしにするのがそんなに楽しいの。
だから真夜中の稲妻のようにちらつくもうひとつの本音に脳が揺れる。気管に悪戯をされているように息が苦しくなる。心がふたつになってしまったみたいであたしはいつも気味が悪くなる。
「百」
「ん?」
「ぎゅってして」
「うん。おいで」
ソファの下で広げられた腕の中へ転がり落ちるように包まれにいく。毛布の中よりよっぽど温かいそこからただ安心だけを拾いたくて。やさしい抱擁の中で首筋に鼻を寄せる。甘さに惑わされて毒に口をつける蝶のように。あたしはそうわかっていて、そうする。
「百の匂い、いないね」
ええ、と返ってきた百の声はまだ心地が良さそうにゆるんでいる。
「いない?」
「女の子の匂いするよ。さっきからずっと」
もっと傷付けば今度こそ心を剥がせるような気がなんとなくしてしまって、嫌悪にまみれながら力の抜けてしまった身体にしがみつく。すぐに覚えられそうなありふれた匂いだった。街中で嗅いだことのあるそれが、百に触れた女の匂いになる。
「あー……タクシー乗せたときかな、後輩が潰れちゃって。上司と二人がかりで」
「それで遅くなったの?」
「そうそう、結構ヤバかった、飲み方教えとけって笑われちゃって」
ごめんねでもいやだったね、着替えてくるね。突き放すような思いやりだけを手渡して、もっとも置いていってほしくないタイミングで腕をほどかれたから混乱は一瞬で脳天を敷き詰めて呆気なく弾ける。
楽しかったんならそれでいいんだよと戻ってきてから言おうと決めて、練習に呟いてみようとしたらそれだけで喉が詰まって、こんなのはおかしい、今は生理前だったか、カレンダーを必死で広げる。そういうことに気を逸らす。それでも止まらなかった涙を誤魔化す体力すら今はなく、立ち上がってリビングを出てトイレに逃げ込もうとしたところで捕まった。
「あーあー、ごめんね、オレが悪かった、怒っていいよ」
「怒ってない」
「うん、ほら戻ろ、こっち寒いから」
「ほんとにトイレ」
「違うでしょ。ああいや、うん、……ね、逃げなくていいから」
「ちがう」
「怒って普通だよ、大丈夫だから」
「めんどくさくなりたくない……」
いつものスウェットが頬にやさしい。触れ合う裸足にやっと安心する。抱きしめられて結局リビングに戻っている。涙は一粒残らずすでに拭い去られている。
あたしをなだめるのがうまい百が大好きだった。ことば選びに細やかに気を遣ってくれている。わかってくれてるってはっきり感じる。なんでそんなことまでわかってしまうんだろうって、怖いに似た位置で驚くことも最近は増えた。一緒に居続けるってこういうことなんだろうか。
大抵は同じごはんを食べて、同じタイミングで家を出て、同じベットで毎晩眠る。同じ太陽の光で目覚めて、同じ風を浴びて、隣で同じ月を眺める。毎日それを繰り返すってことは、こういうことだったんだろうか。
いなくならないでという不安は彼を失うという形でしかもう解消できないくらいに大きく膨らんでいた。あたしはそれに気づいていて、ずっと気づかないようにしていただけだ。
「めんどくさいなんてオレが思わないの、わかってるでしょ?」
「わかんない」
「オレの方がよっぽどもちかちゃんには面倒だと思うけど」
冗談っぽくコーティングされているからそれが、本音のかけらを担っているのだと理解することはできる。
「だから、ほんとはひとつも悲しませたり苦しめたりしたくないし、ずっと幸せでいてほしいんだよ。ましてやオレを選んでくれてるなら、余計に」
「そんな綺麗に好きでいてくれてもうれしくない」
その本音にひびを落として、ああ、そうして歯止めをなくしてしまう。いつもこんなにも簡単に。もうやめてほしいと百と自分の両方に対して願う。それで止まったことは一度もないけれど。
「百は誰でもいいんだよ、どうせ」
失わないと安心できない。ずっとも本物も最初から要らない。なぜなら欲しいものはもう手に入ったあとだから、あとは自然にならって手放すだけだ。いい思い出できたね、のハッピーエンド。
あたしにはいつでもそれだけでいい。
「誰でもいいのはもちかちゃんの方でしょ」
やわらかくあたしを縛り続ける腕の中ではっきりと身が強張る。終わりはいつも明確だけどあたしにはあっけないものだ。百は十分過ぎるほどあたしを深く侵食し切っていて、なくすと痛い。それでもこれからと比べた時、今この瞬間の痛みがいつでもいちばん浅くて薄い。
「オレより愛してくれる男があらわれたら、もちかちゃんはそっちにいくよ」
「そうかもね」
「あはは、即答だ」
親密さを滲ませる低い笑いで肩が揺れる。こんなときにやさしくするなんてどうかしている。
「でも、そんな奴いない」
抱擁が一息で熱を増す。強くて痛くて張り詰めて今にも割れそうで、それがあまりにも心地よくて慄く。剥き出しの彼はあまりにも男の人で、そんな事実さえ背中のうしろに隠してしまうほど常に施されていた手加減をそうして知る。
「この世でいちばん、もちかちゃんを愛してるのはオレだよ」
ごめんねと囁かれて力を緩められた。そうしてできた隙間からふたたび心細さがなだれ込んできて視界が眩む。大丈夫? と覗き込まれるから目を見て頷く。ごめんともう一回謝った百は泣きそうな顔をしていて、あたしの方が泣いている。どうやって大事にしたらいいのか、それだけがまるでわからない。
「怖くないの」
「なんで?」
「あたしが他の人好きになってそっちにいっちゃったら、なんにも報われないよ」
「……そうだね」
「そしたら、恨むの? あたしのこと」
「恨まないよ。そんなことしない」
さっきはあんなに強く抱きしめたのに。しかしほしいものが貰えない怒りをぶつけてしまうには、あまりにも今の彼はもろく見える。
「でも、やっぱそんなのやだから、ここにいてって思うことしかできない」
「……」
「ここにいたいって思ってもらえるようにしか、オレはできない」
泣き虫になったねと振り払うように微笑まれる。流しっぱなしにしておいた方が腫れない。あたしもうまく泣けるようになったらしい。
「よーしじゃあオレがもちかちゃんをあったかーいお風呂にいれてあげよ」
「ふふ、もうあったかいよ、ずっと」
「腕の中だから?」
「そう」
「なら良かった」
キスをしたらまるで元通りに戻れたみたいで、でも決してそんなことはない。裂け目をふたりして見ないふりしただけだ。わかっていたけど直視する強さも体力ももう残ってなかった。
「明日デートでしょ? かわいくしてあげる」
「ドライヤーして」
「もちろん!」
「あのね、お味噌汁作っておいたの」
「えっマジで?! うーん今すぐ食べたい、けど……」
「逃げないから。お風呂行こ」
「そっかあ、そうだね、うん」
空元気が胸に沁みる。どこもかしこも冷えきってしまった、こんな真夜中の空気の中で。
ないない
「こんなとこで寝てるの?」
肩に触れて、二の腕までを撫でられる。ソファに寝そべったあたしはそれを肌で見ている。反応を求めるように脇腹を二度手のひらでつついたあと、無反応を受け取った彼はどこかに行ってしまった。灯されたばかりの灯りが瞼越しにも眩しい。結局落ちなかった意識にも負けたような気分になりながら、芯が冷えたふくらはぎ同士を擦り合わせて暖を生もうとする。
「風邪引くよ、って。オレのこと待ってたの?」
身体を丸ごと覆ったそれはリビングに置いているブランケットにしては分厚くて、わざわざ寝室からとってきてくれたものらしい。キスしていい、と疑問符の削れた問いかけが降って、その三秒後に触れられる。舌先で唇をついて機嫌を窺われるから、断固として拒む。
「やっぱ起きてる」
寝返りを打って彼に背中を向ける。おはようと笑われて髪を梳かれる。もうすでに目は開けていた。至近距離ではっきり香った酒の匂いと知らない香水に憂鬱はピークに達していた。せめて自分が導火線に火をつけている自覚をしてほしいのに、彼の声は一貫して能天気だ。
「遅くなってごめんね。待っててくれると思ってなかった」
「……おかえり」
「ただいま。寝るならベット行く? オレが連れてっちゃおうか」
「いい」
「ご機嫌ななめだ。……こっち向いてよ」
もうひとつ寝返りを打って元通りになった。酔ってる? と尋ねる。ちょっと、と百は笑う。頬に触れるとぷっくりと熱くて「つめたい」と百は心地よさそうに目を閉じる。楽しかったんなら良かったな。素直にそう思っている。心の底から、本心として。
あたしをほったらかしにするのがそんなに楽しいの。
だから真夜中の稲妻のようにちらつくもうひとつの本音に脳が揺れる。気管に悪戯をされているように息が苦しくなる。心がふたつになってしまったみたいであたしはいつも気味が悪くなる。
「百」
「ん?」
「ぎゅってして」
「うん。おいで」
ソファの下で広げられた腕の中へ転がり落ちるように包まれにいく。毛布の中よりよっぽど温かいそこからただ安心だけを拾いたくて。やさしい抱擁の中で首筋に鼻を寄せる。甘さに惑わされて毒に口をつける蝶のように。あたしはそうわかっていて、そうする。
「百の匂い、いないね」
ええ、と返ってきた百の声はまだ心地が良さそうにゆるんでいる。
「いない?」
「女の子の匂いするよ。さっきからずっと」
もっと傷付けば今度こそ心を剥がせるような気がなんとなくしてしまって、嫌悪にまみれながら力の抜けてしまった身体にしがみつく。すぐに覚えられそうなありふれた匂いだった。街中で嗅いだことのあるそれが、百に触れた女の匂いになる。
「あー……タクシー乗せたときかな、後輩が潰れちゃって。上司と二人がかりで」
「それで遅くなったの?」
「そうそう、結構ヤバかった、飲み方教えとけって笑われちゃって」
ごめんねでもいやだったね、着替えてくるね。突き放すような思いやりだけを手渡して、もっとも置いていってほしくないタイミングで腕をほどかれたから混乱は一瞬で脳天を敷き詰めて呆気なく弾ける。
楽しかったんならそれでいいんだよと戻ってきてから言おうと決めて、練習に呟いてみようとしたらそれだけで喉が詰まって、こんなのはおかしい、今は生理前だったか、カレンダーを必死で広げる。そういうことに気を逸らす。それでも止まらなかった涙を誤魔化す体力すら今はなく、立ち上がってリビングを出てトイレに逃げ込もうとしたところで捕まった。
「あーあー、ごめんね、オレが悪かった、怒っていいよ」
「怒ってない」
「うん、ほら戻ろ、こっち寒いから」
「ほんとにトイレ」
「違うでしょ。ああいや、うん、……ね、逃げなくていいから」
「ちがう」
「怒って普通だよ、大丈夫だから」
「めんどくさくなりたくない……」
いつものスウェットが頬にやさしい。触れ合う裸足にやっと安心する。抱きしめられて結局リビングに戻っている。涙は一粒残らずすでに拭い去られている。
あたしをなだめるのがうまい百が大好きだった。ことば選びに細やかに気を遣ってくれている。わかってくれてるってはっきり感じる。なんでそんなことまでわかってしまうんだろうって、怖いに似た位置で驚くことも最近は増えた。一緒に居続けるってこういうことなんだろうか。
大抵は同じごはんを食べて、同じタイミングで家を出て、同じベットで毎晩眠る。同じ太陽の光で目覚めて、同じ風を浴びて、隣で同じ月を眺める。毎日それを繰り返すってことは、こういうことだったんだろうか。
いなくならないでという不安は彼を失うという形でしかもう解消できないくらいに大きく膨らんでいた。あたしはそれに気づいていて、ずっと気づかないようにしていただけだ。
「めんどくさいなんてオレが思わないの、わかってるでしょ?」
「わかんない」
「オレの方がよっぽどもちかちゃんには面倒だと思うけど」
冗談っぽくコーティングされているからそれが、本音のかけらを担っているのだと理解することはできる。
「だから、ほんとはひとつも悲しませたり苦しめたりしたくないし、ずっと幸せでいてほしいんだよ。ましてやオレを選んでくれてるなら、余計に」
「そんな綺麗に好きでいてくれてもうれしくない」
その本音にひびを落として、ああ、そうして歯止めをなくしてしまう。いつもこんなにも簡単に。もうやめてほしいと百と自分の両方に対して願う。それで止まったことは一度もないけれど。
「百は誰でもいいんだよ、どうせ」
失わないと安心できない。ずっとも本物も最初から要らない。なぜなら欲しいものはもう手に入ったあとだから、あとは自然にならって手放すだけだ。いい思い出できたね、のハッピーエンド。
あたしにはいつでもそれだけでいい。
「誰でもいいのはもちかちゃんの方でしょ」
やわらかくあたしを縛り続ける腕の中ではっきりと身が強張る。終わりはいつも明確だけどあたしにはあっけないものだ。百は十分過ぎるほどあたしを深く侵食し切っていて、なくすと痛い。それでもこれからと比べた時、今この瞬間の痛みがいつでもいちばん浅くて薄い。
「オレより愛してくれる男があらわれたら、もちかちゃんはそっちにいくよ」
「そうかもね」
「あはは、即答だ」
親密さを滲ませる低い笑いで肩が揺れる。こんなときにやさしくするなんてどうかしている。
「でも、そんな奴いない」
抱擁が一息で熱を増す。強くて痛くて張り詰めて今にも割れそうで、それがあまりにも心地よくて慄く。剥き出しの彼はあまりにも男の人で、そんな事実さえ背中のうしろに隠してしまうほど常に施されていた手加減をそうして知る。
「この世でいちばん、もちかちゃんを愛してるのはオレだよ」
ごめんねと囁かれて力を緩められた。そうしてできた隙間からふたたび心細さがなだれ込んできて視界が眩む。大丈夫? と覗き込まれるから目を見て頷く。ごめんともう一回謝った百は泣きそうな顔をしていて、あたしの方が泣いている。どうやって大事にしたらいいのか、それだけがまるでわからない。
「怖くないの」
「なんで?」
「あたしが他の人好きになってそっちにいっちゃったら、なんにも報われないよ」
「……そうだね」
「そしたら、恨むの? あたしのこと」
「恨まないよ。そんなことしない」
さっきはあんなに強く抱きしめたのに。しかしほしいものが貰えない怒りをぶつけてしまうには、あまりにも今の彼はもろく見える。
「でも、やっぱそんなのやだから、ここにいてって思うことしかできない」
「……」
「ここにいたいって思ってもらえるようにしか、オレはできない」
泣き虫になったねと振り払うように微笑まれる。流しっぱなしにしておいた方が腫れない。あたしもうまく泣けるようになったらしい。
「よーしじゃあオレがもちかちゃんをあったかーいお風呂にいれてあげよ」
「ふふ、もうあったかいよ、ずっと」
「腕の中だから?」
「そう」
「なら良かった」
キスをしたらまるで元通りに戻れたみたいで、でも決してそんなことはない。裂け目をふたりして見ないふりしただけだ。わかっていたけど直視する強さも体力ももう残ってなかった。
「明日デートでしょ? かわいくしてあげる」
「ドライヤーして」
「もちろん!」
「あのね、お味噌汁作っておいたの」
「えっマジで?! うーん今すぐ食べたい、けど……」
「逃げないから。お風呂行こ」
「そっかあ、そうだね、うん」
空元気が胸に沁みる。どこもかしこも冷えきってしまった、こんな真夜中の空気の中で。
ないない
05
引越しってあんまり好きじゃない。
ことあるごとにあたしは百にそうこぼしていた。林立する段ボール箱の柱で埋められた部屋からはすでに生活感が拭い去られている。仮にこの箱を全部開けて記憶の通りにものを並べたってもう元の部屋には戻らない。
膝を抱える。
「引越しなんて嫌い」
「でも頑張ったじゃん。もう明日で終わるよ」
「ずっと、なにを持っていけばいいのか考えなきゃいけない。そうやって大事なものがなんなのか選ばないといけないのが、しんどかった」
うーんと百がうしろで唸る。明日にはよく知らない人たちがよく分からないカバーをつけて運び出してしまうソファとローテーブルの間にあたしたちは今夜も座り込んでいた。あたしはカーペットの感触が好きだったから、百はあたしの隣が好きだから、それぞれいつもここに座っていた。
「オレはぜんぶ持ってっちゃうなあ、大体宝物だし」
「五年前のレシートのクズ山も?」
「うっ、それはちゃんと捨てたじゃん!」
「やましいもんね、あたしに」
「そんなことないし」
「じゃあなんであんなに慌ててたの」
笑いながら指摘した、その語尾は自然なぬるさで空気に溶けて消えていった。なんとなく電気をつけないまんまで、だからわずかにひらいているカーテンの隙間もそのままで窓の外を眺めていた。ソファのクッションに頬をあずける。西向きの1Kで、いつも夕陽が強く眩しい部屋だった。百はあたしの家から好きな家具を好きなだけ入れていいよと言った。それが入る部屋にしよう、と。やっと肌に馴染んできたお気に入りのものたちを本当は捨てたくなんてなかったことにはそう言われてから気づいた。
「怖い?」
あたしの背中に百のおでこがもたれかかる。そのまま後ろに体重を寄せたら、柔軟に百の身体はあたしを抱きとめて、腰に腕が回される。
「大事なものなんて何にもなくて、いつでもここから逃げられるのが、怖い」
「うん」
「引越しすると、そういうこと、突きつけられる感じがする」
「海が見える部屋だよ。十分歩けば砂浜に着く。すぐ気に入ったよね、オレたち」
硬さを隠そうと静かに告げる声に身体を捩って眼差しを窺う。もうどこを眺めているのか分からないくらい遠くを見つめて、百は二本重なった腕に強く力を込める。
「それでも、また逃げるの?」
「……あんまり、関係ないよ。そういうのは」
そっかと声は崩れるように低く沈む。嘘だよとあたしは百の顎に触れて眼差しをこっちに戻す。口角を上げられるだけ上げて笑う。百はよかったと全然信じていない表情でつぶやいて、それでも強張っていた身体からわずかに力が抜けていく。
「もう寝る?」
上半身をひっくり返して百に抱きつく。そのまま全身を引っ張ってきて百の太腿にまたがる。あたたかく触れ合って、疼きを誤魔化すように胸にうずまった。
「したい」
「ん、マジで? もう遅いよ?」
「この部屋でするの、好きだった」
「ゴムあったかな……ベッド行く?」
「ここでいいよ」
焦らないのとなだめるように背中を撫で下ろされる。安心はもういつだってここにあるとわかっているつもりだった。ここに百がいてくれるおかげだった。
「嫌だって言わないの?」
首筋にキスを受ける。その唇の柔らかさと熱と、どんな顔をしているのか見えないことに安堵しながら、あたしはそう尋ねる。
「うーん、嫌なときは嫌って言うよ」
「そうなの?」
「そりゃね。そんなときほとんどないってだけ」
テーブルの方向いて、と言われるままに身体を回して、ソファの座面に背を預けて天井を見上げた。埋めそびれたカーテンの隙間から真夜中がとめどなくあふれている。ずっと眺めていたかった。熱い指にだって、本当はいつまでもずっとあたしを委ねていたかった。
ないない
引越しってあんまり好きじゃない。
ことあるごとにあたしは百にそうこぼしていた。林立する段ボール箱の柱で埋められた部屋からはすでに生活感が拭い去られている。仮にこの箱を全部開けて記憶の通りにものを並べたってもう元の部屋には戻らない。
膝を抱える。
「引越しなんて嫌い」
「でも頑張ったじゃん。もう明日で終わるよ」
「ずっと、なにを持っていけばいいのか考えなきゃいけない。そうやって大事なものがなんなのか選ばないといけないのが、しんどかった」
うーんと百がうしろで唸る。明日にはよく知らない人たちがよく分からないカバーをつけて運び出してしまうソファとローテーブルの間にあたしたちは今夜も座り込んでいた。あたしはカーペットの感触が好きだったから、百はあたしの隣が好きだから、それぞれいつもここに座っていた。
「オレはぜんぶ持ってっちゃうなあ、大体宝物だし」
「五年前のレシートのクズ山も?」
「うっ、それはちゃんと捨てたじゃん!」
「やましいもんね、あたしに」
「そんなことないし」
「じゃあなんであんなに慌ててたの」
笑いながら指摘した、その語尾は自然なぬるさで空気に溶けて消えていった。なんとなく電気をつけないまんまで、だからわずかにひらいているカーテンの隙間もそのままで窓の外を眺めていた。ソファのクッションに頬をあずける。西向きの1Kで、いつも夕陽が強く眩しい部屋だった。百はあたしの家から好きな家具を好きなだけ入れていいよと言った。それが入る部屋にしよう、と。やっと肌に馴染んできたお気に入りのものたちを本当は捨てたくなんてなかったことにはそう言われてから気づいた。
「怖い?」
あたしの背中に百のおでこがもたれかかる。そのまま後ろに体重を寄せたら、柔軟に百の身体はあたしを抱きとめて、腰に腕が回される。
「大事なものなんて何にもなくて、いつでもここから逃げられるのが、怖い」
「うん」
「引越しすると、そういうこと、突きつけられる感じがする」
「海が見える部屋だよ。十分歩けば砂浜に着く。すぐ気に入ったよね、オレたち」
硬さを隠そうと静かに告げる声に身体を捩って眼差しを窺う。もうどこを眺めているのか分からないくらい遠くを見つめて、百は二本重なった腕に強く力を込める。
「それでも、また逃げるの?」
「……あんまり、関係ないよ。そういうのは」
そっかと声は崩れるように低く沈む。嘘だよとあたしは百の顎に触れて眼差しをこっちに戻す。口角を上げられるだけ上げて笑う。百はよかったと全然信じていない表情でつぶやいて、それでも強張っていた身体からわずかに力が抜けていく。
「もう寝る?」
上半身をひっくり返して百に抱きつく。そのまま全身を引っ張ってきて百の太腿にまたがる。あたたかく触れ合って、疼きを誤魔化すように胸にうずまった。
「したい」
「ん、マジで? もう遅いよ?」
「この部屋でするの、好きだった」
「ゴムあったかな……ベッド行く?」
「ここでいいよ」
焦らないのとなだめるように背中を撫で下ろされる。安心はもういつだってここにあるとわかっているつもりだった。ここに百がいてくれるおかげだった。
「嫌だって言わないの?」
首筋にキスを受ける。その唇の柔らかさと熱と、どんな顔をしているのか見えないことに安堵しながら、あたしはそう尋ねる。
「うーん、嫌なときは嫌って言うよ」
「そうなの?」
「そりゃね。そんなときほとんどないってだけ」
テーブルの方向いて、と言われるままに身体を回して、ソファの座面に背を預けて天井を見上げた。埋めそびれたカーテンの隙間から真夜中がとめどなくあふれている。ずっと眺めていたかった。熱い指にだって、本当はいつまでもずっとあたしを委ねていたかった。
ないない
04
彼女は指をほどくと、ふたり分の温もりが残った手でそのままオレの手首を掴んだ。
「骨のかたちが違うみたい」
瞳が秋空のように一瞬翳って、しかしそれはすぐに払われてオレの表情をたしかめ同じ温度で朗らかに微笑む。澄んだ空の果てでは茜色が鮮やかに燃えていた。
さっきまでふたりで散々観たばかりの、檻の中に収められた動物たちの瞳と何故か重なる。目の前の彼女のそれが。
「そりゃあ男と女だから、同じつくりじゃないでしょ」
「それは大きさとか、太さとかでしょ? かたちまでは違わないよ」
晩ごはん何食べたい? とオレは尋ねる。駅までは河川敷を歩く道を選んだ。伸び放題の雑草が生い茂る堤防の、ガードレールの真下になにか見えて、目を凝らしたら花の束だった。視線を外す。
「なににしようかな、あったかいのがいいなー」
「寒い?」
「冬だね、もう」
手首の骨の出っ張りをしきりに親指で撫でられる。ささやかな求心がいつもひどく愛おしい。まるで呼応するように、好きだよ、とうたうように彼女は呟く。
「かんたんに砕けなさそうな、強い感じがする。百の手の骨が好き」
「砕けるようなことになっちゃ困るよ。でも、そう言ってくれるのはうれしい!」
一方的に触れられる時間にもどかしくなって手を握り直した。「さみしくなった?」と尋ねる彼女に頷くことしかできないまま、離されたらもう掴めない距離を彼女と保つことはきっとこれからどんどん難しくなるだろうと悟った。
「ずっといるよ」
悪戯っぽくそれでいて決定的にオレの目を覗き込む彼女に、さっきの翳なんて一欠片も残っていない。光しかもう、そこには残っていない。
「これからは百の隣にずっといる」
聡い女の子だと、初対面のときからその印象は変わらない。言うだけ言って気が済んだらしく、繋いだ手をぶんぶん勝手に振っている。すでに一度彼女からほどいたはずのその腕を。
「ふたりで住まない?」
そんなクラッカーを、いつでも鳴らしたい。この子が退屈を味わわなくて済むように。そうして目を離さずにはいられないように。いなくならないじゃなくて、離れられなくなるように。
「もちかちゃんと一緒に暮らしたい」
「いいよ」
最近は泣き顔ばかり眺めている気がしていたから、夕焼けの中で溶ける笑顔がやけに真新しく思える。
「どこでも行こうよ、百とだったらどこでもいい」
「……ほんとに?」
「ねえ。百からそういうこと言うのに、いつもびっくりしてる」
約束ね、と彼女は小指を絡めてゆったり振って、それからやっぱりほどいてしまった。追いすがる隙も与えずに。
ないない
彼女は指をほどくと、ふたり分の温もりが残った手でそのままオレの手首を掴んだ。
「骨のかたちが違うみたい」
瞳が秋空のように一瞬翳って、しかしそれはすぐに払われてオレの表情をたしかめ同じ温度で朗らかに微笑む。澄んだ空の果てでは茜色が鮮やかに燃えていた。
さっきまでふたりで散々観たばかりの、檻の中に収められた動物たちの瞳と何故か重なる。目の前の彼女のそれが。
「そりゃあ男と女だから、同じつくりじゃないでしょ」
「それは大きさとか、太さとかでしょ? かたちまでは違わないよ」
晩ごはん何食べたい? とオレは尋ねる。駅までは河川敷を歩く道を選んだ。伸び放題の雑草が生い茂る堤防の、ガードレールの真下になにか見えて、目を凝らしたら花の束だった。視線を外す。
「なににしようかな、あったかいのがいいなー」
「寒い?」
「冬だね、もう」
手首の骨の出っ張りをしきりに親指で撫でられる。ささやかな求心がいつもひどく愛おしい。まるで呼応するように、好きだよ、とうたうように彼女は呟く。
「かんたんに砕けなさそうな、強い感じがする。百の手の骨が好き」
「砕けるようなことになっちゃ困るよ。でも、そう言ってくれるのはうれしい!」
一方的に触れられる時間にもどかしくなって手を握り直した。「さみしくなった?」と尋ねる彼女に頷くことしかできないまま、離されたらもう掴めない距離を彼女と保つことはきっとこれからどんどん難しくなるだろうと悟った。
「ずっといるよ」
悪戯っぽくそれでいて決定的にオレの目を覗き込む彼女に、さっきの翳なんて一欠片も残っていない。光しかもう、そこには残っていない。
「これからは百の隣にずっといる」
聡い女の子だと、初対面のときからその印象は変わらない。言うだけ言って気が済んだらしく、繋いだ手をぶんぶん勝手に振っている。すでに一度彼女からほどいたはずのその腕を。
「ふたりで住まない?」
そんなクラッカーを、いつでも鳴らしたい。この子が退屈を味わわなくて済むように。そうして目を離さずにはいられないように。いなくならないじゃなくて、離れられなくなるように。
「もちかちゃんと一緒に暮らしたい」
「いいよ」
最近は泣き顔ばかり眺めている気がしていたから、夕焼けの中で溶ける笑顔がやけに真新しく思える。
「どこでも行こうよ、百とだったらどこでもいい」
「……ほんとに?」
「ねえ。百からそういうこと言うのに、いつもびっくりしてる」
約束ね、と彼女は小指を絡めてゆったり振って、それからやっぱりほどいてしまった。追いすがる隙も与えずに。
ないない
🍻:大神万理さんがいる
個室といえども大衆居酒屋らしく壁を突き抜けてくる喧騒もそれなりで、既に二、三杯嗜んでいるらしい彼のネクタイは緩められていたから肩の力が一気に抜けた。
「久しぶり」
同じ言葉を返して、コートをかけてる間にやってきた店員に彼がビールを二杯頼む。薄い座布団に腰を下ろして掘りごたつで足の指を縮めたり伸ばしたりした。もうすっかり足を収め慣れたはずのパンプスが本当はひどく窮屈な空間だということをしみじみ感じる。
仕事の近況をお通しのようにつまみ合う。年末が近づけばお互い似たような状態になるのはこれまでの付き合いでよくわかっていることだった。
「んで、この半年どうしてたの。また遊んでた?」
「んーん。一途にやってるよ、今は」
「へえ。お前でもハマるような奴いるんだ」
「すっごくいい子だよ」
「それは……どうなの。お前じゃなくて、相手にとって」
「いいんじゃない、まだ捨てられてないし」
「まだって」
百と関係を持ってからビールは最初の一杯だけにするようになっていた。それまでは好き勝手飲んでいたけれど、好きじゃなかったハイボールに舌を無理やり馴染ませた。酔えればなんでも良くなっていた。本当は甘口のワインもストレートの梅酒も甘ったるいお酒はどれも大好きだったのが懐かしい。維持のための飲酒さえ彼に適応しようと形が歪んでしまっている。本末転倒だな、と安い店のわざわざ味わうものでもないハイボールを飲み下す。
「一回ヤバかったんだよね」
「何したんだよ」
「他の男切ってないのバレた」
「何してんだよ……」
「ちゃんと隠してたよ?」
「お前がちゃんと隠したらバレないだろ。試したがるの、俺にはわかんないな」
「だってそっちは相手が女じゃん。最悪刺されるならあたしだってそんなことしないし、女の子って元が献身的だし」
「彼氏はそうじゃない?」
「……いや」
「じゃあ理由にならない」
分が悪くなって、一杯だけと決めて日本酒を頼む。指さそうとしたやつを止められて、こっちにしろ、と代わりに注文された。あんたの前で潰れたことないだろと唇を曲げる。予防線がポリシーじゃなかったのかと返ってくる。なんとも馬鹿馬鹿しい貧弱なポリシーだ。
百に会いたかった。ふたりで適当なバーに入って、酔ったふりして介抱されたかった。何か、ささやかでいいからあたしの何かを許してもらいたい気分だった。
「下手に誤解されてお前の痴話喧嘩に巻き込まれるのは懲り懲りだよ。なんかただ者じゃなさそうだし」
「呼ぼうか? 身の潔癖、証明しておいてよ」
「いやいいよ。なんて説明するんだよ」
「あたしが会いたいから呼ぶ」
「面倒くさ……」
「良い子だよ。あたしに付き合えるから、そっちとも良い友だちになれるんじゃん?」
「普通に考えろって。嫌だろ、サシで飲むような間柄の彼女の男友達」
「そんなんじゃないじゃん」
「一般的に考えて、だよ」
ここには何もないからこそ、異質な百という存在がどんな反応をするのか知りたい。
なるほどたしかに試そうとしてしまう、あんなに証明してくれたのになおも。
それから結局三十分も経たずにどうもー、と座敷に顔を出した百は少し笑えるくらいには明らかに緊張していた。向かいの男を視界にとらえた瞬間「めちゃくちゃイケメンじゃん」と素直にあたしにこぼした。
「お疲れさま。急に呼び出してごめんね、大丈夫だった?」
「平気、なんもなかったし。あ、春原です。……よろしくお願いします」
「大神です。ごめんね、止めたんだけど呼ぶって言って聞かなくて。君のことを色々聞かせてもらってました。あ、惚気話ね」
「聞いてもらってました」
はやくこっちおいで、と隣に座らせて、冷えてしまっている手をこっそり握ってさすってあげた。あたしが逆の立場なら絶対に出向かない。でも百はこういうのが割と平気な男の子だった。自分で呼んだくせに、何を飲むか尋ねられて「ビールでお願いします」と無邪気な笑顔で返す百に心底感心してしまう。
「なんか食べるならメニュー、はい、すじ煮込み美味しかったよ」
「ほんと? 同じの食べたいな。他になんかおすすめあります?」
物怖じのしなさは向かいの彼にとっても素直に好感に変わったらしい。 あたしなんかに掴まって可哀想だな、としみじみ感じるのはこういうときだった。忘れたくない、とせめてその感覚を隅まで味わうことにしている。
✧
トイレに行くと彼女がオレの後ろをすり抜けて行ってから、奇妙な沈黙が絶妙な密度で場に満ち満ちた。
「スポーツとかやってた?」
「週末にフットサルとかなら、今もしてます。ずっと身体動かすの好きで」
「ぽいね。身体がっしりしてるなーって」
「あの、入ったときすごいイケメンが中にいたから、マジでびっくりしちゃいました。髪、超綺麗ですね。オレズボラだから尊敬しちゃって」
ありがとうと抜けていく笑顔まで隙がなく爽やかで、落ち着かなくて手元のグラスを握る。そんな一部始終まで見つめられていたのでうっと思わず声が出て目を見開いてしまう。
「ごめん。一応ちゃんと言っとくけど、あの子とはなんにもないから」
「……ああ、はい。だから呼ばれたんだろうなって」
「うわ、……そんなめんどくさいことしてるの、あいつ。あ、ごめん。なんて呼んだらいいかなあの子のこと」
「別に普段通りで大丈夫です。オレ、そういうの別に気にしないタイプで、ていうか全然平気で、だからなんか、一回怒らせたこととかあるんですけど」
「なるほど。……正直、なんで付き合ってあげてるのかますます俺にはわかんないんだけど」
「オレもです」
うっかり即答してしまって変な間が案の定生まれる。吐き出そうとした弁解が喉に詰まって取り下げる。仕方なくありのままを吐露するしかなかった。
「でも、好きだし、だから幸せになってほしい。それは別にオレとじゃなくても、って思ってて」
「ふうん……本当にいい子だね」
「もちかちゃんがそう言ってたんですか」
「君のこと、ずっとべた褒めだよ。いないタイプだったんだろうね。あの子に寄り付く男の中で」
徳利を傾けて肘をつく。湯気が彼の表情をぼかす。その奥に覗く伏し目がちな眼差しに、あの二人が友人同士として上手くやってる理由がなんとなくよくわかる。
「思い知ってるだろうけど、結構面倒な子だよ」
「はい」
「持てるのかな? ……って、俺は思っちゃう」
艶やかに微笑むと、彼は内ポケットに右手を突っ込んだ。
「これ、名刺ね。なんかあったら連絡してきていいよ。あの子が何考えてんのかわからなくなったときとか」
「そんなのはもう、ずっとです」
苦笑して、だろうね、と肯定が返ってきたことになんとなく安心した。
「これ、ありがとうございます。オレも」
「いいよ。裏にID書いてるから、あとでラビチャして」
あれなんか仲良さそうなことしてるー、と彼女が割って入ってきたのはそのタイミングだった。何事もなかったようにオレはおかえり、とグラスをまた傾ける。
ないない
個室といえども大衆居酒屋らしく壁を突き抜けてくる喧騒もそれなりで、既に二、三杯嗜んでいるらしい彼のネクタイは緩められていたから肩の力が一気に抜けた。
「久しぶり」
同じ言葉を返して、コートをかけてる間にやってきた店員に彼がビールを二杯頼む。薄い座布団に腰を下ろして掘りごたつで足の指を縮めたり伸ばしたりした。もうすっかり足を収め慣れたはずのパンプスが本当はひどく窮屈な空間だということをしみじみ感じる。
仕事の近況をお通しのようにつまみ合う。年末が近づけばお互い似たような状態になるのはこれまでの付き合いでよくわかっていることだった。
「んで、この半年どうしてたの。また遊んでた?」
「んーん。一途にやってるよ、今は」
「へえ。お前でもハマるような奴いるんだ」
「すっごくいい子だよ」
「それは……どうなの。お前じゃなくて、相手にとって」
「いいんじゃない、まだ捨てられてないし」
「まだって」
百と関係を持ってからビールは最初の一杯だけにするようになっていた。それまでは好き勝手飲んでいたけれど、好きじゃなかったハイボールに舌を無理やり馴染ませた。酔えればなんでも良くなっていた。本当は甘口のワインもストレートの梅酒も甘ったるいお酒はどれも大好きだったのが懐かしい。維持のための飲酒さえ彼に適応しようと形が歪んでしまっている。本末転倒だな、と安い店のわざわざ味わうものでもないハイボールを飲み下す。
「一回ヤバかったんだよね」
「何したんだよ」
「他の男切ってないのバレた」
「何してんだよ……」
「ちゃんと隠してたよ?」
「お前がちゃんと隠したらバレないだろ。試したがるの、俺にはわかんないな」
「だってそっちは相手が女じゃん。最悪刺されるならあたしだってそんなことしないし、女の子って元が献身的だし」
「彼氏はそうじゃない?」
「……いや」
「じゃあ理由にならない」
分が悪くなって、一杯だけと決めて日本酒を頼む。指さそうとしたやつを止められて、こっちにしろ、と代わりに注文された。あんたの前で潰れたことないだろと唇を曲げる。予防線がポリシーじゃなかったのかと返ってくる。なんとも馬鹿馬鹿しい貧弱なポリシーだ。
百に会いたかった。ふたりで適当なバーに入って、酔ったふりして介抱されたかった。何か、ささやかでいいからあたしの何かを許してもらいたい気分だった。
「下手に誤解されてお前の痴話喧嘩に巻き込まれるのは懲り懲りだよ。なんかただ者じゃなさそうだし」
「呼ぼうか? 身の潔癖、証明しておいてよ」
「いやいいよ。なんて説明するんだよ」
「あたしが会いたいから呼ぶ」
「面倒くさ……」
「良い子だよ。あたしに付き合えるから、そっちとも良い友だちになれるんじゃん?」
「普通に考えろって。嫌だろ、サシで飲むような間柄の彼女の男友達」
「そんなんじゃないじゃん」
「一般的に考えて、だよ」
ここには何もないからこそ、異質な百という存在がどんな反応をするのか知りたい。
なるほどたしかに試そうとしてしまう、あんなに証明してくれたのになおも。
それから結局三十分も経たずにどうもー、と座敷に顔を出した百は少し笑えるくらいには明らかに緊張していた。向かいの男を視界にとらえた瞬間「めちゃくちゃイケメンじゃん」と素直にあたしにこぼした。
「お疲れさま。急に呼び出してごめんね、大丈夫だった?」
「平気、なんもなかったし。あ、春原です。……よろしくお願いします」
「大神です。ごめんね、止めたんだけど呼ぶって言って聞かなくて。君のことを色々聞かせてもらってました。あ、惚気話ね」
「聞いてもらってました」
はやくこっちおいで、と隣に座らせて、冷えてしまっている手をこっそり握ってさすってあげた。あたしが逆の立場なら絶対に出向かない。でも百はこういうのが割と平気な男の子だった。自分で呼んだくせに、何を飲むか尋ねられて「ビールでお願いします」と無邪気な笑顔で返す百に心底感心してしまう。
「なんか食べるならメニュー、はい、すじ煮込み美味しかったよ」
「ほんと? 同じの食べたいな。他になんかおすすめあります?」
物怖じのしなさは向かいの彼にとっても素直に好感に変わったらしい。 あたしなんかに掴まって可哀想だな、としみじみ感じるのはこういうときだった。忘れたくない、とせめてその感覚を隅まで味わうことにしている。
✧
トイレに行くと彼女がオレの後ろをすり抜けて行ってから、奇妙な沈黙が絶妙な密度で場に満ち満ちた。
「スポーツとかやってた?」
「週末にフットサルとかなら、今もしてます。ずっと身体動かすの好きで」
「ぽいね。身体がっしりしてるなーって」
「あの、入ったときすごいイケメンが中にいたから、マジでびっくりしちゃいました。髪、超綺麗ですね。オレズボラだから尊敬しちゃって」
ありがとうと抜けていく笑顔まで隙がなく爽やかで、落ち着かなくて手元のグラスを握る。そんな一部始終まで見つめられていたのでうっと思わず声が出て目を見開いてしまう。
「ごめん。一応ちゃんと言っとくけど、あの子とはなんにもないから」
「……ああ、はい。だから呼ばれたんだろうなって」
「うわ、……そんなめんどくさいことしてるの、あいつ。あ、ごめん。なんて呼んだらいいかなあの子のこと」
「別に普段通りで大丈夫です。オレ、そういうの別に気にしないタイプで、ていうか全然平気で、だからなんか、一回怒らせたこととかあるんですけど」
「なるほど。……正直、なんで付き合ってあげてるのかますます俺にはわかんないんだけど」
「オレもです」
うっかり即答してしまって変な間が案の定生まれる。吐き出そうとした弁解が喉に詰まって取り下げる。仕方なくありのままを吐露するしかなかった。
「でも、好きだし、だから幸せになってほしい。それは別にオレとじゃなくても、って思ってて」
「ふうん……本当にいい子だね」
「もちかちゃんがそう言ってたんですか」
「君のこと、ずっとべた褒めだよ。いないタイプだったんだろうね。あの子に寄り付く男の中で」
徳利を傾けて肘をつく。湯気が彼の表情をぼかす。その奥に覗く伏し目がちな眼差しに、あの二人が友人同士として上手くやってる理由がなんとなくよくわかる。
「思い知ってるだろうけど、結構面倒な子だよ」
「はい」
「持てるのかな? ……って、俺は思っちゃう」
艶やかに微笑むと、彼は内ポケットに右手を突っ込んだ。
「これ、名刺ね。なんかあったら連絡してきていいよ。あの子が何考えてんのかわからなくなったときとか」
「そんなのはもう、ずっとです」
苦笑して、だろうね、と肯定が返ってきたことになんとなく安心した。
「これ、ありがとうございます。オレも」
「いいよ。裏にID書いてるから、あとでラビチャして」
あれなんか仲良さそうなことしてるー、と彼女が割って入ってきたのはそのタイミングだった。何事もなかったようにオレはおかえり、とグラスをまた傾ける。
ないない
😴
どうしたのいきなり、珍しいじゃんから電話は始まって、ひくい声は寝起きを示していた。布擦れの音がそこに混ざる。百との電話は声だけを抽出する機能が切られていて、だからいつもさまざまな音がくっついている。水をコップに注ぐ音。電子レンジを開けて閉める音。歯を磨いている音。その真ん中にある百の声。
そういうところも含めて、百との電話は好きだった。
「起こした?」
「うん、寝てた」
「じゃあいいや。おやすみ」
「待って、……ちょっと待って。さみしいじゃん、もうちょっとおしゃべりしてよ」
「……うん」
寝返りを打つ。かけたのはあたしからだったのに。機嫌を取るためにお願いする方に回ってくれてるのかな。捻くれた考えは浮かんですぐに弾けて消えた。百は本当にそう思っているみたいに声を出すのが上手い。
「なに食べたの? 晩ごはん」
「んー……グラタン」
「コンビニの?」
「ローソンのたらこのやつ」
「好きだね。前も食べてなかった?」
「おいしいよ。百は?」
「オレは今日は会社の人と飲みだったよ。お肉いっぱい食べちゃって」
「美味しかった?」
「もちろん」
「よかったね」
ねむい、と声に出したら、このまんま寝ていいよ、が返ってくる。
「あいたい」
「え、?」
「て言おうとして、かけたの」
おやすみなさいと残して通話を切った。どんなメッセージが送られてくるのかは明日の楽しみにしようと思っていた。最近は憂鬱な朝が多い。疲労はすぐに瞼の重しになって、沈んでいくように眠りに落ちる。
✧
ぱ、と目を開けたら壁が背についていた。ん、と寝返りを打とうとして、打てない。せまい。それから、あったかい。
「百の匂い」
「……あ、起きた?」
「おはよ」
ふふ、と分厚い胸板に笑い声が出る。え、なんで? 笑うとこ? と困惑した声が降る。寝起きの低い、掠れた声。
「なんでいるの」
「会いたいって、言われたから」
「深夜……何時だったけ」
「二時」
「来ないよ、ふつう」
「オレはいつでも会いたいよ」
このひとは拗ねるとあたしを抱きしめたがる。それにも慣れてきた頃合いだった。パーカーの生地に埋もれて息を吸う。
「でも、もちかちゃんはいつでもオレに会いたいわけじゃないでしょ?」
「うーん、うん……」
「それでも、もちかちゃんが会いたいなら、それは会えるってことじゃん。なら、いつでもどこでも、それは飛んでいくよ」
わかった? と腕のちからが緩む。鼻先を押し付けて、それを返事の代わりにする。
「寝ていいよ。あと一時間半ある。オレが起こしてあげる」
「百も仕事?」
「ん。一緒にごはん食べよ」
「つくって」
「いいよ。任せて。とびっきりの愛込めちゃう」
んーありがとう、と呟いて、もういっかい瞼を落とした。ひとの体温は苦手だけど、百の腕の中なら不思議と眠れる。なめらかな好意は、あたしの身体にもよく馴染むようにできている。
ないない
どうしたのいきなり、珍しいじゃんから電話は始まって、ひくい声は寝起きを示していた。布擦れの音がそこに混ざる。百との電話は声だけを抽出する機能が切られていて、だからいつもさまざまな音がくっついている。水をコップに注ぐ音。電子レンジを開けて閉める音。歯を磨いている音。その真ん中にある百の声。
そういうところも含めて、百との電話は好きだった。
「起こした?」
「うん、寝てた」
「じゃあいいや。おやすみ」
「待って、……ちょっと待って。さみしいじゃん、もうちょっとおしゃべりしてよ」
「……うん」
寝返りを打つ。かけたのはあたしからだったのに。機嫌を取るためにお願いする方に回ってくれてるのかな。捻くれた考えは浮かんですぐに弾けて消えた。百は本当にそう思っているみたいに声を出すのが上手い。
「なに食べたの? 晩ごはん」
「んー……グラタン」
「コンビニの?」
「ローソンのたらこのやつ」
「好きだね。前も食べてなかった?」
「おいしいよ。百は?」
「オレは今日は会社の人と飲みだったよ。お肉いっぱい食べちゃって」
「美味しかった?」
「もちろん」
「よかったね」
ねむい、と声に出したら、このまんま寝ていいよ、が返ってくる。
「あいたい」
「え、?」
「て言おうとして、かけたの」
おやすみなさいと残して通話を切った。どんなメッセージが送られてくるのかは明日の楽しみにしようと思っていた。最近は憂鬱な朝が多い。疲労はすぐに瞼の重しになって、沈んでいくように眠りに落ちる。
✧
ぱ、と目を開けたら壁が背についていた。ん、と寝返りを打とうとして、打てない。せまい。それから、あったかい。
「百の匂い」
「……あ、起きた?」
「おはよ」
ふふ、と分厚い胸板に笑い声が出る。え、なんで? 笑うとこ? と困惑した声が降る。寝起きの低い、掠れた声。
「なんでいるの」
「会いたいって、言われたから」
「深夜……何時だったけ」
「二時」
「来ないよ、ふつう」
「オレはいつでも会いたいよ」
このひとは拗ねるとあたしを抱きしめたがる。それにも慣れてきた頃合いだった。パーカーの生地に埋もれて息を吸う。
「でも、もちかちゃんはいつでもオレに会いたいわけじゃないでしょ?」
「うーん、うん……」
「それでも、もちかちゃんが会いたいなら、それは会えるってことじゃん。なら、いつでもどこでも、それは飛んでいくよ」
わかった? と腕のちからが緩む。鼻先を押し付けて、それを返事の代わりにする。
「寝ていいよ。あと一時間半ある。オレが起こしてあげる」
「百も仕事?」
「ん。一緒にごはん食べよ」
「つくって」
「いいよ。任せて。とびっきりの愛込めちゃう」
んーありがとう、と呟いて、もういっかい瞼を落とした。ひとの体温は苦手だけど、百の腕の中なら不思議と眠れる。なめらかな好意は、あたしの身体にもよく馴染むようにできている。
ないない
03
正直そこから一ヶ月間のまともな記憶はほとんどなかった。
波は寄せるばかりで引いていくことはなく、打ち捨てられた衝撃の余韻だけが実感だった。いつも違う、それでいて同じ夜があたしの中に満ちて死んだ。ぬくもりが欲しい、そんなやさしい理由じゃなかった。自傷行為なんてしたたかな理由でもない。この身体に触れるのがもう百ではないことを純粋に、そしてわかりやすい方法で毎晩確認したかった。あの男の欠片があたしを傷つけることに、もう少しも耐えられなかった。
日毎に確実に肌の感覚は壊死していった。そこまでは自覚していた。細いねと上擦った声で腰を撫でられて、終わったあとに冷え切った白い腹を撫でながら体重計に乗った。表示された数字と記憶の数字をいち、に、と指折り数えていって、左手の人差し指でカウントは止まった。七キロ。
ハンドソープで叩き割りたくなったのをなんとかこらえた。身体はとっくに枯れ切って毎晩膣から粘液を吐き出す以外の機能を失くしているのに、そういうときはまるでまだ生きているみたいに涙は往生際悪く溢れて止まらなくなった。
寒さに耐え切れる身体はあの日に失ったから、当然越冬できずに死ぬだけだ。数多といるそういう動物と、まったく同じように。
そう信じていた。それだけが唯一の光であるかのように。
過去のあたしが縋りついていた百みたいに、無条件で絶対的な事実として。
✧
合鍵を返してもらうなんてまともなあたしなら抜かりなく郵便で送ってもらうなりしていたはずだった。そういうことをすっかり忘れていたのを一瞬で思い出す。あたしの腕を掴んだそのひとから覗いた瞳に。
「遅いよ」と咄嗟に呟いてしまって、かき消したかったのに過ぎた一瞬はもう盆に返せなくて、せめて腕を振りほどく。──期待するのはいつでも惨めだ。願ったとおりに叶うのはいつだって絶望だけだった。
「……待ってたの、オレのこと」
「そんなわけないでしょ。何の用?」
「鍵も返してもらわないで、不用心な子だなって思ったけど、さすがに会いに行けなかった。やっとちょっと落ち着いたから返そうと思って、そしたら」
「じゃあ返してください。わざわざありがとうございます」
「もちかちゃん」
ここは平穏な土曜の午後だった。張り詰めた涙の膜から、母親と子どもの繋がれた手に目を逸らす。息を止める。深く吐く。ようやく吸う。
「まだ好きだよ、ずっと好き。だから大丈夫」
「なにが」
「もちかちゃんのこと、ずっと忘れない。もちかちゃんがいつか忘れてすれ違っても目が合っても声をかけてもオレのこと思い出せなくなったって、オレは覚えてる」
「好きにすれば、」
「ここにいるから」
欲しいと自覚すらしてなかったことばを与えて、彼はそうしてあたしの蓋をこじ開けて、力はゆっくりと抜けていく。
✧
穏やかで知っている愛の温度に帰れたことが信じられなくてしばらくすがりついていた。何回泣いたかわからなかった。百はそれでも手を止めることはなく、容赦のない残忍な男とまるで変わらない仕草で、あたしにやさしくし続けた。
「ごはん食べてないの」
「細くて綺麗だっていっぱい言われたよ」
「前のもちかちゃんの方が好き」
「胸、小さくなった?」
「そういうことじゃなくて」
ふふ、と百は笑って、中に入ってたしかめるみたいに形を馴染ませる。ゆるく締めると幸福そうな声を漏らした。
「他の男とするときもこんな感じ?」
「そんなこと、ほんとに知りたいの」
「……いや、知りたくない」
覆いかぶさってきた身体を抱きとめて、背中をさらさら撫でる。ここがあたしの場所だった。自分がここにいる、という当然の感覚にまた涙が出た。
奥にねじ込まれて、百のかたちを覚えていることにくらくらした。知らない人が触ったってなんの意味もない壁なんだなと俗っぽく言い換えて、触りたくない事実には蓋をして無心に律動している百の身体に意識をあつめたら、あっという間に快感が全身の神経から滲む。そこしか出口がないから仕方なく、這い出るようにわずかな量が喉から音になって逃げていく。
背筋が痺れて地球の真ん中から手招かれてるみたいに筋肉が縮む、きつい、と呻く声が上から響く、頭がぐらぐらしてうっすらしか感じ取れない。視界が白くまたたいて、響く自分の声さえ聴き取れずに、気付いたらなにもかもが弾けたあとだった。
「もも、……もも」
「すごかったね、今。気持ちよかった?」
「ん、んー……」
「泣かないでよ。ずっと泣いてんじゃん、今日」
「もうだめなんだと、思ったから」
身体の隙間に耐えられなくて抱き寄せる。また入ってきて息が詰まる。
「百がいなくなって、もう生きていけないと、思ってたから」
「なにそれ……」
やめて、と掴まれた腰に思わず制止しようとしてしまう、なのによりいっそう激しく突かれて、次はもう声も出せなかった。
「なんでオレがいなきゃ駄目なのにあんなこと言ったんだよ」
泣き声なのか喘ぎ声なのか混濁して気持ち悪くて、全然こんなの綺麗じゃなくて、すごく惨めなのに、彼はあたしを手放さなかった。
このままずっといちばん近くに居続けてほしかった。誰かにそんなことを願う日が来るなんて信じられなくて、産まれたての赤子みたいに抱きついてずっと泣いていた。彼があたしの中で果てるたびにこれで終わってしまうんじゃないかと怯えた。夜が更けるまで安堵と破滅を幾度も幾度も繰り返した。一体いつ意識を飛ばしたのか、あたしはまったく覚えていなかった。
ないない
正直そこから一ヶ月間のまともな記憶はほとんどなかった。
波は寄せるばかりで引いていくことはなく、打ち捨てられた衝撃の余韻だけが実感だった。いつも違う、それでいて同じ夜があたしの中に満ちて死んだ。ぬくもりが欲しい、そんなやさしい理由じゃなかった。自傷行為なんてしたたかな理由でもない。この身体に触れるのがもう百ではないことを純粋に、そしてわかりやすい方法で毎晩確認したかった。あの男の欠片があたしを傷つけることに、もう少しも耐えられなかった。
日毎に確実に肌の感覚は壊死していった。そこまでは自覚していた。細いねと上擦った声で腰を撫でられて、終わったあとに冷え切った白い腹を撫でながら体重計に乗った。表示された数字と記憶の数字をいち、に、と指折り数えていって、左手の人差し指でカウントは止まった。七キロ。
ハンドソープで叩き割りたくなったのをなんとかこらえた。身体はとっくに枯れ切って毎晩膣から粘液を吐き出す以外の機能を失くしているのに、そういうときはまるでまだ生きているみたいに涙は往生際悪く溢れて止まらなくなった。
寒さに耐え切れる身体はあの日に失ったから、当然越冬できずに死ぬだけだ。数多といるそういう動物と、まったく同じように。
そう信じていた。それだけが唯一の光であるかのように。
過去のあたしが縋りついていた百みたいに、無条件で絶対的な事実として。
✧
合鍵を返してもらうなんてまともなあたしなら抜かりなく郵便で送ってもらうなりしていたはずだった。そういうことをすっかり忘れていたのを一瞬で思い出す。あたしの腕を掴んだそのひとから覗いた瞳に。
「遅いよ」と咄嗟に呟いてしまって、かき消したかったのに過ぎた一瞬はもう盆に返せなくて、せめて腕を振りほどく。──期待するのはいつでも惨めだ。願ったとおりに叶うのはいつだって絶望だけだった。
「……待ってたの、オレのこと」
「そんなわけないでしょ。何の用?」
「鍵も返してもらわないで、不用心な子だなって思ったけど、さすがに会いに行けなかった。やっとちょっと落ち着いたから返そうと思って、そしたら」
「じゃあ返してください。わざわざありがとうございます」
「もちかちゃん」
ここは平穏な土曜の午後だった。張り詰めた涙の膜から、母親と子どもの繋がれた手に目を逸らす。息を止める。深く吐く。ようやく吸う。
「まだ好きだよ、ずっと好き。だから大丈夫」
「なにが」
「もちかちゃんのこと、ずっと忘れない。もちかちゃんがいつか忘れてすれ違っても目が合っても声をかけてもオレのこと思い出せなくなったって、オレは覚えてる」
「好きにすれば、」
「ここにいるから」
欲しいと自覚すらしてなかったことばを与えて、彼はそうしてあたしの蓋をこじ開けて、力はゆっくりと抜けていく。
✧
穏やかで知っている愛の温度に帰れたことが信じられなくてしばらくすがりついていた。何回泣いたかわからなかった。百はそれでも手を止めることはなく、容赦のない残忍な男とまるで変わらない仕草で、あたしにやさしくし続けた。
「ごはん食べてないの」
「細くて綺麗だっていっぱい言われたよ」
「前のもちかちゃんの方が好き」
「胸、小さくなった?」
「そういうことじゃなくて」
ふふ、と百は笑って、中に入ってたしかめるみたいに形を馴染ませる。ゆるく締めると幸福そうな声を漏らした。
「他の男とするときもこんな感じ?」
「そんなこと、ほんとに知りたいの」
「……いや、知りたくない」
覆いかぶさってきた身体を抱きとめて、背中をさらさら撫でる。ここがあたしの場所だった。自分がここにいる、という当然の感覚にまた涙が出た。
奥にねじ込まれて、百のかたちを覚えていることにくらくらした。知らない人が触ったってなんの意味もない壁なんだなと俗っぽく言い換えて、触りたくない事実には蓋をして無心に律動している百の身体に意識をあつめたら、あっという間に快感が全身の神経から滲む。そこしか出口がないから仕方なく、這い出るようにわずかな量が喉から音になって逃げていく。
背筋が痺れて地球の真ん中から手招かれてるみたいに筋肉が縮む、きつい、と呻く声が上から響く、頭がぐらぐらしてうっすらしか感じ取れない。視界が白くまたたいて、響く自分の声さえ聴き取れずに、気付いたらなにもかもが弾けたあとだった。
「もも、……もも」
「すごかったね、今。気持ちよかった?」
「ん、んー……」
「泣かないでよ。ずっと泣いてんじゃん、今日」
「もうだめなんだと、思ったから」
身体の隙間に耐えられなくて抱き寄せる。また入ってきて息が詰まる。
「百がいなくなって、もう生きていけないと、思ってたから」
「なにそれ……」
やめて、と掴まれた腰に思わず制止しようとしてしまう、なのによりいっそう激しく突かれて、次はもう声も出せなかった。
「なんでオレがいなきゃ駄目なのにあんなこと言ったんだよ」
泣き声なのか喘ぎ声なのか混濁して気持ち悪くて、全然こんなの綺麗じゃなくて、すごく惨めなのに、彼はあたしを手放さなかった。
このままずっといちばん近くに居続けてほしかった。誰かにそんなことを願う日が来るなんて信じられなくて、産まれたての赤子みたいに抱きついてずっと泣いていた。彼があたしの中で果てるたびにこれで終わってしまうんじゃないかと怯えた。夜が更けるまで安堵と破滅を幾度も幾度も繰り返した。一体いつ意識を飛ばしたのか、あたしはまったく覚えていなかった。
ないない
02
うん、もういいよ。
ささやかな確かさで肩を押されて、そんなのは初めてだった。開けた口を閉じるのも忘れていてきっと間抜けだっただろう、今から思えば。
色を持たないぬめった唇を愛おしそうに百は親指でなぞる。鼻を軽くすすって、覚えていたいような気もするそんな匂いがして、まだ一枚も脱いでいないことをひどくもどかしく感じた。求めたくなるなんていつぶりだろう。その熱は懐かしい幸福の感触を伴っていた。
「まだ出してないじゃん」
「トイレ行ってくる」
「え?」
「先寝てていいよ」
「……うん」
引き止めて疑問をぶつけるよりなにも尋ねないことの安全をはっきり選んだ。責める資格はこの時点であたしも失っていた。愛していた分臆病だった。既に百を失いたくなかった。
でも、だからこそ許せなかったとも言える。
何事もなかったかのように戻ってきた百と同じ布団の中で暖をとった。相変わらずあたしは口を閉ざしたままだった。百の胸板に触れながら目を閉じて、交わる寸前で行き場を失った熱をそうしてなだらかに冷ました。
「ごめんね」
眠りかけていたわたしは呑気にいいよと応える。一枚向こうが冷えた空気で埋まっている、この限られた楽園の中は気を抜くとあたたかくて溶けてしまいそうだ。水に透かすみたいに心地よく意識はぼやけていった。紛れもなく幸福だった。いまこの瞬間までは。
「誰のこと考えてる?」
服から花の匂いがする。週末の間だけお揃いになる柔軟剤の匂い。
そんな甘くて好きな手触りの中に、鋭い針の感触をたしかに見つける。
「百のことかんがえてる」
欲しがった言葉をためらいなく手渡して、あたしは柔軟剤なんかよりもよっぽど嗅ぎなれた匂いのする百の胴から顔を上げる。
「どういう意味?」
「オレのことだけじゃないよね」
「回りくどいの、好きじゃないよ。知ってるでしょ」
「他の男とセックスした?」
存在する音が消失したこの部屋に馴染んだ音がかすかに流れる。頭の中だ。いつも聴いてるあたしの好きな歌。あたしを助けて、くれる歌。
どうして大事だってわかっていてちゃんと大事にしているのにそういうものに限っていともたやすく屑と化して燃え尽きてしまうんだろう。
「なんとか言ってよ」
そうして手元に腐るほど溜まった、こんな灰ばかりが胸にまた積もって、黒く煤けてますます消えなくなる。
「そんなことしてないよ。百だけに決まってるじゃん。何を勘違いしてるのか知んないけど」
透明な声を編み込んで手渡す。中身を抜いたのはあなただった。身を起こして目の前の百を見下ろす。
「そう言ってほしいなら言ってあげる。それでいいんでしょ。それがいいんでしょ」
他の存在なんて比べるまでもなくこの世は百で染まっていた。単色の世界はあまりにもあたしに息苦しい。
果てしない高さに虚しくなる、見知らぬ天井を眺めるときに考えるのは百のことだった。百がもしここにいたらあたしを犯したこの男を殺すかな。そんなことはしないかな。もしかしたら別に何も感じないのかもしれない。想像しては胸に穴が空いて耐えきれなくなって泣いた。ホテルや初めて会った人間の家で明かす夜はどんな風に口に含んでもひとしく同じ味がした。百との夜だけがいつも、あたしの肌を、瞳を、髪を、胸を、腹を、太腿を照らす。そうして輪郭を描いてもらうことで、ようやくはっきりと抱きしめることができる。
そういうことをまったくわかっていないらしかった。なんて伝えたらいいのかわからなかったし、言わなくたって伝わらなきゃ意味がない、そういう事柄だった。
「別に、怒ってないよ」
恐がっていた想像は、そしてとうとう現実になってしまう。
「これからしないなら許すよ。もちかちゃんと一緒にいたいから」
「許すの」
「うん。でももうしないで、こんな」
「ねえ。ゆるすの、他の男と寝たあたしを」
憤怒で染まった視界の赤色が何回まばたきしても抜けなくて、いっそいますぐ死んでほしいといやにはっきりした願望が迸って、ぶつけられなくらいの明確な殺意はむしろ自分の首を絞めることを知った。
「なに、どうしたの」
「気持ち良かったよ。百じゃなくても。百より上手い人もいた。相性なんだねああいうのって。キスされて幸せになったりした。百から貰えないもの貰ったりもした。連絡先だって消してない。メッセージがきたら今からでも行くよ」
「……」
「許すの」
「許したいよ。だって好きで、まだ一緒にいたいから」
「怒ってないって言った。ぜんぶ知ってたのに、あたしと平気な顔で一緒に過ごして、今の今まで」
到底受け入れられなくて心臓の芯は燃えて破裂して焦げてしまいそうなのに、氷漬けにされてるように身体が震えて止まらない。
「こんなに一緒にいたのになんにもわかってないんじゃん。あたしが好きとか言ってるけど、百が見てるその子は誰なの」
「……落ち着いてよ」
「あたしじゃない、そんな子あたしじゃない」
微動だにできないからまっすぐ滑り落ちるだけの涙はもう決まった筋に従うだけで、そこに嗚咽が加わって、堰が切れたら取り返せなくて、無防備な泣き声はしずかな冬の部屋によく響いた。手に負えなくなったあたしはそれを醒めた瞳で斜め上から眺めている。百のこともまとめて、滑稽な人間同士として。
「許すって言われてありがとうごめんねもうしないよって言うと思われたのが、本当に許せない」
どっかいって、としゃくりあげながら喚いて、糸が切れて枕に顔をうずめた。酸素がいまこの瞬間に滅んでしまえばよかった。肺も捩れてそのまま死にたかった。
「一生顔も見たくない、もう全部終わり、ありがとう、さようなら」
「……あっそ。なんか、……もう付き合ってらんないよ。オレじゃ駄目なんだって、よくわかった」
「出てって」
「今までありがとう」
ドアが開いて閉まって、それからやっと静寂がやってきて、あたしは安心して、深く呼吸をしてしまう。身を滅ぼすほどの嵐からまた生き延びてしまう。
全部忘れようと決めていた。あれもこれもどれもなかったことにしよう。そして実際、それで済む話だった。
ないない
うん、もういいよ。
ささやかな確かさで肩を押されて、そんなのは初めてだった。開けた口を閉じるのも忘れていてきっと間抜けだっただろう、今から思えば。
色を持たないぬめった唇を愛おしそうに百は親指でなぞる。鼻を軽くすすって、覚えていたいような気もするそんな匂いがして、まだ一枚も脱いでいないことをひどくもどかしく感じた。求めたくなるなんていつぶりだろう。その熱は懐かしい幸福の感触を伴っていた。
「まだ出してないじゃん」
「トイレ行ってくる」
「え?」
「先寝てていいよ」
「……うん」
引き止めて疑問をぶつけるよりなにも尋ねないことの安全をはっきり選んだ。責める資格はこの時点であたしも失っていた。愛していた分臆病だった。既に百を失いたくなかった。
でも、だからこそ許せなかったとも言える。
何事もなかったかのように戻ってきた百と同じ布団の中で暖をとった。相変わらずあたしは口を閉ざしたままだった。百の胸板に触れながら目を閉じて、交わる寸前で行き場を失った熱をそうしてなだらかに冷ました。
「ごめんね」
眠りかけていたわたしは呑気にいいよと応える。一枚向こうが冷えた空気で埋まっている、この限られた楽園の中は気を抜くとあたたかくて溶けてしまいそうだ。水に透かすみたいに心地よく意識はぼやけていった。紛れもなく幸福だった。いまこの瞬間までは。
「誰のこと考えてる?」
服から花の匂いがする。週末の間だけお揃いになる柔軟剤の匂い。
そんな甘くて好きな手触りの中に、鋭い針の感触をたしかに見つける。
「百のことかんがえてる」
欲しがった言葉をためらいなく手渡して、あたしは柔軟剤なんかよりもよっぽど嗅ぎなれた匂いのする百の胴から顔を上げる。
「どういう意味?」
「オレのことだけじゃないよね」
「回りくどいの、好きじゃないよ。知ってるでしょ」
「他の男とセックスした?」
存在する音が消失したこの部屋に馴染んだ音がかすかに流れる。頭の中だ。いつも聴いてるあたしの好きな歌。あたしを助けて、くれる歌。
どうして大事だってわかっていてちゃんと大事にしているのにそういうものに限っていともたやすく屑と化して燃え尽きてしまうんだろう。
「なんとか言ってよ」
そうして手元に腐るほど溜まった、こんな灰ばかりが胸にまた積もって、黒く煤けてますます消えなくなる。
「そんなことしてないよ。百だけに決まってるじゃん。何を勘違いしてるのか知んないけど」
透明な声を編み込んで手渡す。中身を抜いたのはあなただった。身を起こして目の前の百を見下ろす。
「そう言ってほしいなら言ってあげる。それでいいんでしょ。それがいいんでしょ」
他の存在なんて比べるまでもなくこの世は百で染まっていた。単色の世界はあまりにもあたしに息苦しい。
果てしない高さに虚しくなる、見知らぬ天井を眺めるときに考えるのは百のことだった。百がもしここにいたらあたしを犯したこの男を殺すかな。そんなことはしないかな。もしかしたら別に何も感じないのかもしれない。想像しては胸に穴が空いて耐えきれなくなって泣いた。ホテルや初めて会った人間の家で明かす夜はどんな風に口に含んでもひとしく同じ味がした。百との夜だけがいつも、あたしの肌を、瞳を、髪を、胸を、腹を、太腿を照らす。そうして輪郭を描いてもらうことで、ようやくはっきりと抱きしめることができる。
そういうことをまったくわかっていないらしかった。なんて伝えたらいいのかわからなかったし、言わなくたって伝わらなきゃ意味がない、そういう事柄だった。
「別に、怒ってないよ」
恐がっていた想像は、そしてとうとう現実になってしまう。
「これからしないなら許すよ。もちかちゃんと一緒にいたいから」
「許すの」
「うん。でももうしないで、こんな」
「ねえ。ゆるすの、他の男と寝たあたしを」
憤怒で染まった視界の赤色が何回まばたきしても抜けなくて、いっそいますぐ死んでほしいといやにはっきりした願望が迸って、ぶつけられなくらいの明確な殺意はむしろ自分の首を絞めることを知った。
「なに、どうしたの」
「気持ち良かったよ。百じゃなくても。百より上手い人もいた。相性なんだねああいうのって。キスされて幸せになったりした。百から貰えないもの貰ったりもした。連絡先だって消してない。メッセージがきたら今からでも行くよ」
「……」
「許すの」
「許したいよ。だって好きで、まだ一緒にいたいから」
「怒ってないって言った。ぜんぶ知ってたのに、あたしと平気な顔で一緒に過ごして、今の今まで」
到底受け入れられなくて心臓の芯は燃えて破裂して焦げてしまいそうなのに、氷漬けにされてるように身体が震えて止まらない。
「こんなに一緒にいたのになんにもわかってないんじゃん。あたしが好きとか言ってるけど、百が見てるその子は誰なの」
「……落ち着いてよ」
「あたしじゃない、そんな子あたしじゃない」
微動だにできないからまっすぐ滑り落ちるだけの涙はもう決まった筋に従うだけで、そこに嗚咽が加わって、堰が切れたら取り返せなくて、無防備な泣き声はしずかな冬の部屋によく響いた。手に負えなくなったあたしはそれを醒めた瞳で斜め上から眺めている。百のこともまとめて、滑稽な人間同士として。
「許すって言われてありがとうごめんねもうしないよって言うと思われたのが、本当に許せない」
どっかいって、としゃくりあげながら喚いて、糸が切れて枕に顔をうずめた。酸素がいまこの瞬間に滅んでしまえばよかった。肺も捩れてそのまま死にたかった。
「一生顔も見たくない、もう全部終わり、ありがとう、さようなら」
「……あっそ。なんか、……もう付き合ってらんないよ。オレじゃ駄目なんだって、よくわかった」
「出てって」
「今までありがとう」
ドアが開いて閉まって、それからやっと静寂がやってきて、あたしは安心して、深く呼吸をしてしまう。身を滅ぼすほどの嵐からまた生き延びてしまう。
全部忘れようと決めていた。あれもこれもどれもなかったことにしよう。そして実際、それで済む話だった。
ないない
01
週末の掃除を終えた部屋でへたりこんでしばらく、部屋の中で息を吸って、吐いた。グロスで最後の仕上げをした唇から甘い匂いがする。家を出る時間まであと十分ある。音楽をかけるわけでもなく、本や動画に触れるわけでもなく、あたしは呼吸をしていた。
初冬の夕暮れは空気自体が弛緩していてもどこか侘しく、息を吸うごとに肺が青色に染まっていくようだった。
完全に油断していた脳を鋭い音が割く。チャイムの音はふたたび響くことはなかった。通販を頼んだ覚えはない。しつこくないからセールスでもない。そもそも一回で鳴りを潜めてしまったチャイムは、オートロックではなく玄関のものを直接押されている。
「誰……」
腰を持ち上げる。萎れたスカートがもとの形を取り戻す。わたしの足に纏って、同じように戸惑っている。今日はこれから何処に行くのと。
そんなのはあたしだって知らない。
黒い扉にひとつ空いた覗き穴に瞳を寄せる。俯いた男が見える。だれ、と息だけで呟いた。
こん、とドアノブの辺りがささやかに鳴る。小突いた男は顔を上げていて、あ、と今度は声が出る。
戻ってインターホンに出るか迷って、でも億劫だったから鍵を開けた。
怪しんでいないわけじゃなかった。警報を鳴らす危機管理能力をはっきり認めながら、あたしはノブを引く。
「うわっ……、いや、久しぶり」
半年経つのを待たずに逢瀬の途切れた男が、覗き穴通りにそこに立っていた。
「ごめん、開くと思ってなかったから、なんて言うか考えてなかった……あ、ちょっと待って。これ、もちかちゃんに買ってきたんだけど、飲む? キャラメルラテ」
「……お久しぶりです」
「うん、うん……。ごめん、ほんと」
「それ、貰う。わざわざありがとう」
「あはは……いや、寒いよね。手短にする。あのさ」
「いいよ、部屋上がる?」
「えっ、それはさすがに」
「寒いから。あたしが」
「そ、うだよね。うん、玄関先で全然いいんだけど。二分で済ますし」
「いいよ。そっちもコーヒー持ってきたんでしょ? ゆっくり飲みたい」
「うん……。なんか、慣れてんね。こういうこと、よくある?」
あはは、と笑い声が出た。スリーブの付けられていない質素なカップは柔い指を傷つける熱を放っていて、ぢりぢりとした感覚に焦げそうになった寸前で、もう片方の手に持ちかえる。
「そんなわけないじゃん。春原くんが初めてだよ」
✧
ふたつ前の男にはそんなに確かなものが欲しいなら今すぐ結婚しようと電話口で泣いて縋られて、みっつ前の男にはあなたが考えてることがわからないと沈痛な面持ちで俯かれた。
理解もできないくせに、はたしてあたしの口からなにを聞きたいんだろう。愛されることを願う唇はあたしの求めてる愛を紡ぐことはいつまでもなかった。お互いさまだと、いつも思う。
形が合わないんだと思って、それからは何も要らなくなった。
熱すぎるラテが冷めていく温度に期待しているわけでもなかった。向かいの彼は居心地が悪そうに身動ぎしている。会う頻度は月に一、二回で、何度か断りを入れたこともあって、どうしてもと言うから最後に一度だけ電話して、そうして連絡を絶ったのはあたしからだった。事実を述べればそれだけで、でもたしかにあたしなりの感情がその筋にだって流れていたはずだった。あまり、良く思い出せないだけで。
「怖がらせたよね。ごめん」
「ストーカーになられる方が怖くて」
「いや、本当に……そうだよね。いや、オレの話なんて聞かなくていいんだよ、ただ、オレが忘れらんなかっただけで」
「ふふ。いいよ、別に。怯えてるわけじゃない」
「そ、……ほんと? 気遣ってる?」
「いつもだけど、良い別れ方しないしね。怒鳴られたりしがみつかれたりは慣れてる」
「あはは。……笑っていいのか、わかんないけど」
「でも、家まで来られたのは本当に初めて。よく覚えてたね。一回上がったくらいじゃない?」
「うん、……ほんと、ごめん。ヤバいよね。なんて謝っていいか」
「なら、もう謝んないで」
塗ったばかりの粘った膜が白いカップの縁に貼り付いて色をつける。外に出かけるよりは面白くなるかなと思ったのにあんまり面白くない。手持ち無沙汰で、腕を伸ばしてカーテンをなんとなく引いた。部屋が半分暗くなる。
「で、何しに来たの?」
「……ああ、うん……」
「二分で終わるって言ったのに」
彼はせめて陽気に笑おうとする。鈍い人にはそれがきちんと笑顔にうつるだろう。それはあたしからすれば吐き気を堪えてるようにさえ見えて、うっすらと苛立ちが泡立つ。
「ブロックされてたからさ、これしかないかって」
「うん」
「三ヶ月経って、オレも頭冷えて、改めて」
「前置き、いいよ。気遣わないで」
暖房をつけようとして伸ばした手のひらがカップにぶつかる。蟻の巣の穴のような口から、ローテーブルに茶色い液体がじわりと広がる。
「やり直さない? オレたち」
フローリングに滴る寸前で波は止まった。焼き付けたくてそれを見つめていたから彼がどんな表情をしていたのかは知らなかった。
「『あたしよりあなたのこと好きになってくれるような、もっといい子がいるよ』」
「それは、……前も聞いた」
「わかってるんだったら言わせないでよ」
「もちかちゃんじゃなきゃ駄目だって、あのときも言ったし、今も変わってない」
「全然頭冷えてないじゃん。……じゃあ、春原くん自身がもっと好きになれる子と早く出会ってください」
「いないよ」
ぬるい速度で冷えていくテーブルの上の液体は、すこしも揺れず動かずに、ただ、佇んでいる。
「いないからここにいるんじゃんか。わかんない?」
彼の方に広がっていた甘い茶色が、わずかに揺れる。あたしは指を彩る輪っかからやっと顔を上げて、彼の表情を確かめる。
「ちょっと、泣いてんの?」
「ごめん、……もういいや、押しかけてほんとごめん。忘れてほしい」
「いいよ、付き合う?」
もういいかい、のあとのもういいよ、を知らない子どもみたいだ、こんなのは。永遠にまあだだよがここには響いている。目を伏せる。いつだって始まってほしくない。終わってほしくないなら始めないのがいちばんだ、わかっている。そう唱えたら本当にわかったような気に、いつもなる。
「ほんとに言ってんの」
「春原くんが、そうしたいって」
「そりゃそうだけど」
「いいよ。いま付き合ってるひとと、本当は今日もデートする予定だったけどもう間に合わないし」
「えっ、……なにそれ」
「いいよ、百にする」
顔を上げたらさっき半分遮った窓から光がさしていて、目の前の景色はどこもしっとりと潤んでいる。彼の瞳もそこから落ちていく雫もそれを吸うキャラメルラテの残骸も、雨上がりの水たまりみたいにきらきらしていた。だから、合ってた、って、思った。
「百が好きだから、百にするよ」
目の前に好ましい色の現実ばかりが広がっているように思えて、あたしは込み上げるままにゆるく微笑む。呆然とした彼と、──百と、そうして目が合う。やっとまともに。
ないない
週末の掃除を終えた部屋でへたりこんでしばらく、部屋の中で息を吸って、吐いた。グロスで最後の仕上げをした唇から甘い匂いがする。家を出る時間まであと十分ある。音楽をかけるわけでもなく、本や動画に触れるわけでもなく、あたしは呼吸をしていた。
初冬の夕暮れは空気自体が弛緩していてもどこか侘しく、息を吸うごとに肺が青色に染まっていくようだった。
完全に油断していた脳を鋭い音が割く。チャイムの音はふたたび響くことはなかった。通販を頼んだ覚えはない。しつこくないからセールスでもない。そもそも一回で鳴りを潜めてしまったチャイムは、オートロックではなく玄関のものを直接押されている。
「誰……」
腰を持ち上げる。萎れたスカートがもとの形を取り戻す。わたしの足に纏って、同じように戸惑っている。今日はこれから何処に行くのと。
そんなのはあたしだって知らない。
黒い扉にひとつ空いた覗き穴に瞳を寄せる。俯いた男が見える。だれ、と息だけで呟いた。
こん、とドアノブの辺りがささやかに鳴る。小突いた男は顔を上げていて、あ、と今度は声が出る。
戻ってインターホンに出るか迷って、でも億劫だったから鍵を開けた。
怪しんでいないわけじゃなかった。警報を鳴らす危機管理能力をはっきり認めながら、あたしはノブを引く。
「うわっ……、いや、久しぶり」
半年経つのを待たずに逢瀬の途切れた男が、覗き穴通りにそこに立っていた。
「ごめん、開くと思ってなかったから、なんて言うか考えてなかった……あ、ちょっと待って。これ、もちかちゃんに買ってきたんだけど、飲む? キャラメルラテ」
「……お久しぶりです」
「うん、うん……。ごめん、ほんと」
「それ、貰う。わざわざありがとう」
「あはは……いや、寒いよね。手短にする。あのさ」
「いいよ、部屋上がる?」
「えっ、それはさすがに」
「寒いから。あたしが」
「そ、うだよね。うん、玄関先で全然いいんだけど。二分で済ますし」
「いいよ。そっちもコーヒー持ってきたんでしょ? ゆっくり飲みたい」
「うん……。なんか、慣れてんね。こういうこと、よくある?」
あはは、と笑い声が出た。スリーブの付けられていない質素なカップは柔い指を傷つける熱を放っていて、ぢりぢりとした感覚に焦げそうになった寸前で、もう片方の手に持ちかえる。
「そんなわけないじゃん。春原くんが初めてだよ」
✧
ふたつ前の男にはそんなに確かなものが欲しいなら今すぐ結婚しようと電話口で泣いて縋られて、みっつ前の男にはあなたが考えてることがわからないと沈痛な面持ちで俯かれた。
理解もできないくせに、はたしてあたしの口からなにを聞きたいんだろう。愛されることを願う唇はあたしの求めてる愛を紡ぐことはいつまでもなかった。お互いさまだと、いつも思う。
形が合わないんだと思って、それからは何も要らなくなった。
熱すぎるラテが冷めていく温度に期待しているわけでもなかった。向かいの彼は居心地が悪そうに身動ぎしている。会う頻度は月に一、二回で、何度か断りを入れたこともあって、どうしてもと言うから最後に一度だけ電話して、そうして連絡を絶ったのはあたしからだった。事実を述べればそれだけで、でもたしかにあたしなりの感情がその筋にだって流れていたはずだった。あまり、良く思い出せないだけで。
「怖がらせたよね。ごめん」
「ストーカーになられる方が怖くて」
「いや、本当に……そうだよね。いや、オレの話なんて聞かなくていいんだよ、ただ、オレが忘れらんなかっただけで」
「ふふ。いいよ、別に。怯えてるわけじゃない」
「そ、……ほんと? 気遣ってる?」
「いつもだけど、良い別れ方しないしね。怒鳴られたりしがみつかれたりは慣れてる」
「あはは。……笑っていいのか、わかんないけど」
「でも、家まで来られたのは本当に初めて。よく覚えてたね。一回上がったくらいじゃない?」
「うん、……ほんと、ごめん。ヤバいよね。なんて謝っていいか」
「なら、もう謝んないで」
塗ったばかりの粘った膜が白いカップの縁に貼り付いて色をつける。外に出かけるよりは面白くなるかなと思ったのにあんまり面白くない。手持ち無沙汰で、腕を伸ばしてカーテンをなんとなく引いた。部屋が半分暗くなる。
「で、何しに来たの?」
「……ああ、うん……」
「二分で終わるって言ったのに」
彼はせめて陽気に笑おうとする。鈍い人にはそれがきちんと笑顔にうつるだろう。それはあたしからすれば吐き気を堪えてるようにさえ見えて、うっすらと苛立ちが泡立つ。
「ブロックされてたからさ、これしかないかって」
「うん」
「三ヶ月経って、オレも頭冷えて、改めて」
「前置き、いいよ。気遣わないで」
暖房をつけようとして伸ばした手のひらがカップにぶつかる。蟻の巣の穴のような口から、ローテーブルに茶色い液体がじわりと広がる。
「やり直さない? オレたち」
フローリングに滴る寸前で波は止まった。焼き付けたくてそれを見つめていたから彼がどんな表情をしていたのかは知らなかった。
「『あたしよりあなたのこと好きになってくれるような、もっといい子がいるよ』」
「それは、……前も聞いた」
「わかってるんだったら言わせないでよ」
「もちかちゃんじゃなきゃ駄目だって、あのときも言ったし、今も変わってない」
「全然頭冷えてないじゃん。……じゃあ、春原くん自身がもっと好きになれる子と早く出会ってください」
「いないよ」
ぬるい速度で冷えていくテーブルの上の液体は、すこしも揺れず動かずに、ただ、佇んでいる。
「いないからここにいるんじゃんか。わかんない?」
彼の方に広がっていた甘い茶色が、わずかに揺れる。あたしは指を彩る輪っかからやっと顔を上げて、彼の表情を確かめる。
「ちょっと、泣いてんの?」
「ごめん、……もういいや、押しかけてほんとごめん。忘れてほしい」
「いいよ、付き合う?」
もういいかい、のあとのもういいよ、を知らない子どもみたいだ、こんなのは。永遠にまあだだよがここには響いている。目を伏せる。いつだって始まってほしくない。終わってほしくないなら始めないのがいちばんだ、わかっている。そう唱えたら本当にわかったような気に、いつもなる。
「ほんとに言ってんの」
「春原くんが、そうしたいって」
「そりゃそうだけど」
「いいよ。いま付き合ってるひとと、本当は今日もデートする予定だったけどもう間に合わないし」
「えっ、……なにそれ」
「いいよ、百にする」
顔を上げたらさっき半分遮った窓から光がさしていて、目の前の景色はどこもしっとりと潤んでいる。彼の瞳もそこから落ちていく雫もそれを吸うキャラメルラテの残骸も、雨上がりの水たまりみたいにきらきらしていた。だから、合ってた、って、思った。
「百が好きだから、百にするよ」
目の前に好ましい色の現実ばかりが広がっているように思えて、あたしは込み上げるままにゆるく微笑む。呆然とした彼と、──百と、そうして目が合う。やっとまともに。
ないない
「……性欲ないんかと思ってました」
掠れた声に百は無言でミネラルウォーターを手渡す。激しく達した記憶はないのに疲労感が心地よく身体を覆っているのは単純に持久戦だったからだった。
「ない……こたないでしょ、男だよ? オレも」
「素直に帰してくれてたから」
「我慢してたの! なに、しなくてよかったの?」
照れを通り越して開き直ろうとして失敗している。なんにも羽織らないまんまでもういっかいあたしは大きなベットに横たわる。効きすぎた暖房がいかにも喉に悪い。
「気持ちよかったよ」
「……そ、そう」
「すごくやさしいなって」
こっちおいでと呼べばおずおずとやってきて、そのくせあたしに抱きついてくる。あたしを怖がってるんだか手に入れたいんだかはっきりしないけど、でもまあ良い奴だった。
「あの」
「え」
「うそ、勃ってる?」
「ん……いや、……はい」
「信じらんない」
「ここまで長かったじゃんか……溜まってたの……」
「さすがにもう無理……」
もちかちゃんは寝てるだけでいいって挿れる気満々だから笑ってしまった。拒むようなあたしじゃなくてよかったね。囁くとまた耳を熱くしている。
ないない